風邪からはかなり回復したような気がする。しかし、今朝も寒いなあ。
昨日購入した、「会社がなぜ消滅したか〜山一証券役員達の背信〜」(読売新聞社会部)を読む。
4大証券のひとつであった山一証券が、97年に自主廃業という破綻に至るまでの要因の検証を行った本だが、たいへん興味深い。普通の会社の倒産劇であれば、その内実は、外部からの憶測や、限られた情報源に頼って書かざるを得ないが、この山一の自主廃業の場合には、かなりその内実が明らかになっている。
それは、倒産決定後に、社内の調査委員会が設置され、損失飛ばしによる簿外債務がどのように形成されてきたかを、社内の資料により検証する作業が行われたからだ。しかし、巨額な損失を抱え込んでいた事業法人部は、調査委員会の設立後に、「飛ばし」、や「損失補填」にかかわる多くの社内資料を破棄しているのだという。
そして、経営陣に委嘱された外部の弁護士、会計士による「法的責任判定の最終報告書」は、結局公開されることがなかった。しかし、それに基づいたこの本の調査によると、巨額の損失隠しにかかわったのは、ひと握りの経営者だけではない。やはり数千億という金額を、ユーレイ子会社や海外の特定子会社に複雑な処理で付け替えて回転させる作業は、実務から離れた役員連中だけで操作しきれるものではないのであって、ほとんどの損失を生み出した事業法人部の幹部社員を含めて、数十人、数百人の社員が恒常的な不正経理、損失隠しにかかわっていたのではないかというのがこの本の結論である。
まあ、後になって検証するなら、巨額の損失の原因になったのは、バブル絶頂期に、第10代の横田社長が「一任勘定取引」を獲得するよう大号令をかけ、バブル崩壊後に抱えた膨大な損失を、次の行平社長が何の対策も打たずに放置したことにあるのは明かだ。行平は会長になった後も、企画部の側近だけを重用して院政を引き、含み損失がどうにもならなくなったところで、何の事情も知らなかった野澤専務を、沈み行く泥船に社長として置き去りにして去った。
涙の記者会見で有名な野澤社長だが、確かにあれこれと対策は打ったものの、すべて後手に回って効果はなかった。しかし、頼みの綱にしていた外資との提携にしても、数千億の簿外損失を隠しながらの交渉であったのだから、提携が成功していても、おそらくほんの何ヶ月かの延命にしかならなかったというのが読後の印象だ。
もっとも、この本で大蔵省の責任についてほとんど触れられていないのは奇異に思える。山一証券は、1965年の第1次山一危機で日銀特融によって倒産の危機を逃れてから、大蔵省には頭が上がらなくなり、MOF担経験者が幹部になり、大蔵省の意向さえ聞いていれば安泰と考える経営を引いてきた会社である。
破綻当時の新聞報道や関係者の証言でも、大蔵省は、かねてより巨額の含み損について承知しており、むしろ海外に「飛ばす」ことを示唆さえしたことを示す証言が多々あるのだが、結果的には、山一経営陣がすべて隠していたということであっけなく自主廃業に追い込まれたような感がある。日債銀などに税金をあれだけ投入したことを考えると、バブル崩壊によって護送船団形式の金融機関管理が次々に破綻をきたしだした混乱の中で、タイミング悪く見捨てられたという面もあるだろうか。まあ、大蔵のキャリアなんてのは、指導はするが責任は取らないのだよなあ。
しかし、そもそも、考えてみれば、山一が背負うことになった損失というのは、バブルに浮かれた一般の事業会社が、本業を忘れて巨額の資金を、自らの何の判断もなく無軌道に財テクに投資して被った損失なんである。少なくとも、運用をまかせてホッタラカシにした会社のほうにだって自己責任があるだろう。野村證券なんかは、もともとがヤクザな体質の会社であるから、弱い会社には、知らぬ存ぜぬで損失を押し戻して負担させたらしい。文句言うと、おおかた、今後の上場や資金調達の時に意地悪するぞと脅したんだろうなあ。あそこはそれくらいのことはやりかねない。
まあ、いくら補填の約束があったとはいえ、損失を自らがほとんど被って、それが雪ダルマ式に増えていった山一というのも、気がいいというか、愚かというか、気の毒というか。しかし、バブルというのはそういう異常な時代だったのも確かだ。
人の一生に寿命があるように、きっと企業にも寿命がある。そして、経済環境や経営者の判断如何によって、企業の命運は、関係する人々の人生を、巨大なタペストリーのように織り込みながら流転してゆく。巨大倒産というのは、誰もが知っている経済社会という舞台で演じられる壮大な悲劇だ。単なるドラマと違うのは、その悲劇が関係した人の人生に実際に大きな影響を与えずにはいられないということで、実際に巻きこまれた人には本当に気の毒な話である。
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