一日だけ飲まなかった木曜日は早々に帰宅して、以前に買ってあった「骨董買いウラ話」(光芸出版)を読んだ。プロアマ問わず、骨董売買に関してニセモノを掴まされた実際の失敗談をあれこれ集めた本。
書画骨董の世界というのも実に奥が深くて、欲を出すとプロの骨董屋でもコロっと騙されてニセモノをつかむ。というよりもプロ同士で騙し合いをしてるといったほうがいいか。欲を出さずとも騙される時は騙されるのがまたヤッカイな点である。
目利きに自信があると自称しているアマチュアなんぞは言わずもがな、その骨董歴の中で数えきれないほどニセモノをつかまされて痛い目にあってるらしい。田舎の成り金が悦にいって収集している骨董は、まず大概ニセモノである。
もっともこういう骨董の世界では、あからさまに「ニセモノ」とは言わず、「いけない」、「2番手」、「ちと若い」、「ショボイ」などと言い習わすらしい。
雪舟、鉄斎なんぞは世の中に出回っているもののほとんどがニセモノであると言う人もいるくらいだから、本物しか流通してなかったら、骨董趣味も骨董屋もほとんど壊滅状態ということになるだろう。
この本には、なぜこれほどニセモノが横行するかについてもあれこれ興味深い話が載っている。初めから騙すつもりで偽造したものがまず多量にある。本物の銘と価値のない書画を組み合わせて表装屋が偽造したものも多い。
これ以外にも、必ずしも最初から悪意で作成したニセモノではないが、結果的にニセモノが流通する場合がある。拝観料を取るような有名な古刹には、実際に有名な書画があるが、普段飾っているのはしかるべき絵師に作らせた複製である場合が多い。本物をつるしていては書画が痛むからである。こういう写しが、なにかの拍子に骨董屋に出回ると、「あの有名なXX寺から出た逸品」と称されて流通する。XX寺から出たことに間違いはない。ただ、本物でないというだけのことである。
田舎の名家や大名宅で、大邸宅に箔をつけるために有名な書画を模造させたものもたくさん存在する。お抱えの絵師を持っていた殿様もいる。別に模造品を流通して儲けようなどというサモシイ魂胆ではなく、みずからの楽しみのために作らせても、後代になって没落した子孫が売り払うと、「あの有名なXX家から出た」ということになるのである。画家や陶芸家が自分の勉強のために模倣したものが流出する場合もあるし、世の中には骨董のニセモノの種は尽きない。
そういえば、小林秀雄のエッセイにこういうのがあった。小林を骨董の世界に引きずり込んだのは青山二郎であるが、色々教え込まれて、焼き物を見る目がそろそろついてきたと自負してきた頃、小林はみずから赤絵の見事な皿を買った。ところが得意になって青山に見せると、チラっと眺めただけで、「なんだこんなもの、見る価値もない」と断言され、「勝手にひとり歩きするからこういうことになる」とどやされる。
ニセモノならば叩き割ってしまおうと思ったが、夜中に何度見ても心に染み入る美しさである。一晩中眠れずに皿だけを見て過ごし、翌日電車に飛び乗って、新橋の骨董屋にその皿を持ち込む。
主人は気のなさそうにチラっと一瞥しただけで、「これはいいですよ」という。この皿は、やはり本物であったというお話。
青山二郎は、子供の頃から陶芸にのめり込み、こと焼き物に関しては素晴らしい鑑定眼を持った偉大な趣味人であったが、彼にさえ、自分が手取り足取り焼き物を教えていた小林が勝手に一人歩きして買ったという時点で、本物の皿であってもニセモノと見えてしまう。審美眼の世界というのもなかなか恐ろしいものだ。
焼き物の世界は、どんなプロでも見誤る時は見誤るという話だが、それにしては、「なんでも鑑定団」の中島誠之助なんかを見ると、「これはいい」、「これは清朝に大量に作られた写しです」とピタピタ鑑定するのは不思議という他ない。もっとも録画であるから、事前にかなり調べこんでから、はっきり分かるものだけを鑑定してるのだろうか。 まあ、色々と話を読んでみると、骨董にのめり込むほど金がないのも幸せだなと思わざるをえない。なにしろ買わなければ騙されることがないからなあ。 |