昨日で仕事納め。アッという間の1年だったが、いよいよ今年も終り。昨日は納会で酒が入って帰宅したので、そのままゴロゴロ。この正月は東京で過ごすので、本も買いだめしておくか。 今朝は、どういうわけか早めに眼が覚めた。「バベルの謎〜ヤハウィストの冒険」(長谷川三千子/中央公論社)を再読。 「人間が高慢となり、神の高みに上ろうと天まで届く塔を建てる。その傲慢に怒った神が天罰を下し、ガラガラと崩れ去るバベルの塔」 これが、旧約聖書を読んだことが無い人でも漠然と持っている『バベルの塔』の一般的イメージである。しかし、実際に旧約聖書の「創世記」にあるこの物語を読むならば、そこには「人間の高慢と神の罰」を読み取ることは難しい。まして「ガラガラと崩壊する塔」については、聖書には一言も書かれていないのである。 なぜ、『バベルの塔』の物語は、「塔の物語」としても、「人間の高慢と神の罰の物語」としても、奇妙に「語りそこね」られてしまっているのか? 著者はここに着目し、この物語が含まれている、旧約聖書モーセ5書のうち「J文書」(神のことを”ヤハウェ”と表記している文献群:ヤハウィスト資料ともいう)に焦点を当てる。 著者は、この「J文書」だけを旧約から抽出し、メソポタミアの古代伝承とも比較して丹念に読みこみ、「J文書」を書いた「ヤハウィスト」の構想と動機に迫る。 この作業によって、聖書古層に浮かび上がってくるのは、極めて親密な「人間創造」物語。「人間」に対する神の素朴な慈しみ、そして、結局のところ「できそこない」の被造物であった「人間」に対する神の絶望、そして、神自身による神自身の絶望の克服といった、きわめてドラマティックで生き生きとした「神」と「人間」との関係である。 いままで漠然と知ってたつもりになっていた旧約聖書の逸話が、著者の明晰で説得力のある読み込みによって、まったく新しい光に照らされる。そこに蘇る、生き生きとしたヤハウィストの構想に従った物語群。まるでミステリーを読んでるかのような、sense of wonderに対する刺激に満ちた、たいへん面白い読み物だ。 もうひとつ興味深いのは、この著者が、聖書が専門ではなく、哲学者であること。 哲学が学問として成立してたのは、自然科学と神学と文学が不可分に渾然一体として存在してた昔々の話。数学やら物理やらがチンプンカンプンの連中が、文学部の哲学科という迷宮に集い、文科系的観念だけで世界のありようを沈思黙考するマスターベーションにふけりだしてからは、『哲学』は完全に死んだのだ。これが私の偏見に満ちた暴論である。 しかし、それでもなお、宗教的テキストの解読という分野においては、この著者の哲学的手法なるものが十分に機能し、読み物として大変に成功している。「ソフィーの世界」などという、子供だましの「歴史」の本を読んで哲学がなんとなく分かったような気分にひたるくらいなら、この本を読んだほうが、「物を考える」ということがいったいどういうことかが分かって実に有益な気がする。 もっとも、著者の主張が、自然科学的に立証できるかというと、それは実は不可能であって、所詮、我々はこの本を読んで「知の迷宮」をさ迷っているに過ぎない。しかし、それが読書の面白さなのであった。 |