「誰がヴァイオリンを殺したか」(石井宏/新潮社)読了。ヴァイオリンという楽器は、アンドレア・アマーティにより16世紀にミラノの南東、クレモーニで製作された。それからほぼ500年、その基本的な形態、材質はほぼ変更なく作りつづけられていることからすると、(先行する似たような民族楽器はあったにせよ)これは、ほとんど、天才による、ヴァイオリンという新しい楽器の発明に等しい出来事であった。 このアマーティ家の3代目に仕えた弟子が、18世紀前半のストラディヴァーリ。そのヴァイオリンは、超一級の名品として、現在でも、何千万円もの値段で取引されている。そのほかにも名器として珍重されているのは、18世紀前半までに製作されたヴァイオリンばかり。それ以降に製作されたヴァイオリンには、昔の10分の1の値段もつかない。 本当にもう、昔のようなヴァイオリンは作れないのか。「古刀」と呼ばれる昔の日本刀を超える刀は、もう現在の技術では作れないと言う話とよく似ている。歴史の過程で、伝承されるべきなんらかの技術が封じられ、忘れ去られたのであろうか。 ニスの調合に秘密がある、昔の素晴らしかった材料がもうない、などと説は色々あるが、本当にストラディヴァーリの楽器は、それにしか出せない素晴らしい音を持っているのだろうか。この本の前半部は、この疑問に対する回答である。 著者の結論は、ヴァイオリンは弾く人の音しかしない。ストラデヴァーリであってもヘタクソが弾けば悪い音。18世紀前の楽器が珍重されるのは、たんなる骨董品としての価値だけ、というもの。なんだかしかし、楽器に対するロマンが消滅するような話である。 本書の後半は、19世紀前半に、「悪魔のヴァイオリン弾き」と呼ばれ、絶大な人気を誇ったイタリア生まれのヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニの伝記をたどる。そして、発明以来、多くの人々の心を魅了し、かき乱し、「悪魔の楽器」とも呼ばれたヴァイオリンが、なぜ現代では、もう昔のようには「悪魔の声」で歌わないのか。なぜ、第2の「悪魔」パガニーニが生まれないのか。その謎の追求である。 私なりに勝手に著者の結論をまとめると、平均率の採用、それによって完璧に鳴らない和音を隠すためのヴィヴラート奏法の導入、19世紀に入ってからの音楽大衆化に伴って行われた、大音量化を図る弦のテンション増加。これらがすべて影響しあって、かつて貴族のサロンで繊細で魅惑的に鳴り、歌い、人々の心をかき乱したヴァイオリンは死に絶え、鉄の弦のような音しかしない、オーケストラに20人もいるような大衆楽器になってしまったのだということになる。 この結論の背景にある著者の主張は、「音楽の大衆化」によって死んだのは、ヴァイオリンだけではない、実はすべての音楽である、という過激なもの。この主張の当否はさておき、この本そのものは、まるで上質のサスペンスを読むような謎解きのカタルシスにあふれた、実におもしろい本である。本屋で見かけたら、買うべし。ははは。 ま、それにしても、ストラディヴァーリを始めとする昔の名ヴァイオリンの音が、他のコピーと変わらないというのは、どこまで事実なんだろうか。 現代の大量生産された大衆楽器であっても、アコースティックギターであれば、ギブソンとマーティンの音は明らかに違う。エレクトリック・ギターでも、レスポールとフェンダーのストラトキャスターは、音を聞いただけで分かる。著者の主張は極論であることは理解できるが、ホントのところはどうなのか、なかなか興味深い話である。 |