「田中真紀子研究」(立花隆/文藝春秋)読了。 田中真紀子が、父、田中角栄から何を受け継ぎ、そして何を受け継がなかったかを検証してゆく本。その過程で、立花は必然的に、自らの代表作「田中角栄研究」を再検証して行くことになる。真紀子の話題よりも、角栄研究の追加にあたる部分が、大変に興味深い。 「立花隆先生、かなりヘンですよ」、「立花隆の無知蒙昧を衝く」など、立花隆の自然科学系の著作は、現在、かなりのバッシングに遭っている。確かに、「食べてもDNAが直接身体に入るわけではないから、遺伝子組替植物は安全。僕は何でも食べます」など、最近の立花の、特に遺伝子組替や環境ホルモン関係の発言には、どうもピントのずれた「トンデモ」発言が多い。 やはり、立花の才能が輝くのは、「田中角栄研究」を始めとする、ジャーナリストとしての仕事にあるという気がする。ノーベル賞を受けた直後の利根川進へのインタビューも興味深かった。話題の人物をインタビューし、ルポルタージュするという、ジャーナリスティックな著作であったからか。 立花が、自ら本で勉強した知識を開陳し、自らの科学観やら哲学を語り出すにつれ、立花の著作は「トンデモ」に近づいて行く。そういう面では、やはり文科系の人というべきであろうか。もっとも、物理学の天才、湯川秀樹にしても、功成りとげてから出版したエッセイで開陳した自らの「哲学」は、いったい何言いたいのかさっぱり分からないシロモノで、やはり、才能にも置くべき場所があるということを痛感するのであった。 話がそれた。そうそう、「真紀子研究」。 暴論ではあるがと断りながら立花が述べるのは、「田中真紀子は、(新聞も雑誌も読まず)、ワイドショー以外は世の中の出来事を知らないオバさんの根拠無き熱狂によって祭り上げられた偶像だ」ということであり、それはある意味正しい。ワイドショーが手の平を返したように「真紀子バッシング」をしている昨今では、特に。しかし、バブルがはじけなければバブルと分からないように、偶像も地に落ちなければ、偶像であったと分からないのである。人類は、ギリシャローマの昔から、衆愚政治を繰り返してきたのだもの。 角栄関係で興味深いのは、田中の金脈再検証の部分。立花は、佐藤昭の「私の田中角栄日記」を引用して、「田中は、愛人の佐藤には、おとがめを受けるような本当にヤバい金は扱わせてない。それは角栄の佐藤に対する愛情だ」と結論する。 私も1年5月18日の日記で、「角栄日記」の感想を、 田中角栄は、自分が本当に愛した女だけには、自分のダーティーな面を決して見せなかったのかもしれない。そういう面では、田中を必死に弁護するこの佐藤昭の声は真実である可能性もある。もちろん当人にとってはということだが。と書いた。「田中角栄日記」を読むと、どうしてもそういう気がする。金権の塊、金の亡者のように言われた角栄も、誰にどんな金を扱わせるかは、ちゃんと考えていたのだ。 本論に当たる、田中真紀子を取り上げた部分はどうか。 官僚が上げてくるペーパーは一切読まない。仕事はしない。周りの人間は、すべて下男か使用人扱い。その時の気分で怒鳴り散らして、組織の段取りを滅茶苦茶にする。口のきけないリハビリ中の角栄の頭をフライパンで殴る。離反した側近達の告白が相次いで、田中真紀子のとんでもない行動が明らかになっている。しかし、圧巻なのは、この本で引用されている、角栄が卒中で倒れた時の発言だ。 角栄が脳梗塞で倒れ入院したその日、筆頭秘書の早坂茂三は病室に駆けつける。ベッドに横たわり、何の反応も示さない角栄の手を握り締めて、「オヤジ!、オヤジ!」と早坂が涙にくれた時、「純情ねえ」と田中真紀子の乾いた声が背後から響いたのだという。「(本当の)角栄は実の話、この日に死んだ」と早坂は書いている。 早坂元秘書は、「傲岸不遜がスーツを着て歩いている」と言われ、「オレがオレが」の代表。実にイヤな男である。しかし、この真紀子から受けた仕打ちには、心底から同情する。世界を一刀両断にして凍らせる、冷酷なオバハンの寸鉄。田中真紀子は、実に恐ろしい猛女である。 |