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2004/09/25 「罪と罰、だが償いはどこに?」

「罪と罰、だが償いはどこに?」(中嶋博行/新潮社)読了。

加害者だけの人権を擁護し、被害者の救済に無関心な「人権屋」思想の根底が簡潔によくまとめられており興味深い。人権思想そのものが絶対王政下での権力の恣意的な刑罰権に制限を加えるためのものであり、成立の歴史からみても権力対市民の構造を元にしている。犯罪によって損なわれた市民同士の利害を調整するような発想はもとからない。だからこそ、「新人権主義」の確立が必要という論拠には基本的に賛成。

刑罰が甘くなり早期の仮釈放を進めていたアメリカで急速に犯罪率が高まり、一時は実質的に廃止されていた死刑執行が再開された経緯。80年代後半から、市民からの批判により厳罰主義に転向したアメリカの刑罰の歴史は興味深い。刑務所は満杯だが確かに犯罪率は減少した。

刑務所の民営化についても、アメリカではいったん推進された後、種種の問題が生じているのだが、日本では意外に成功するかもしれない。刑事事件と民事事件の裁判を同時に行うという提案についてもおもしろい発想。刑事罰以外に民事での補償を求めて民事訴訟を起こしても、訴訟費用がかかり裁判は延々と決着しない。判決で損害賠償請求が認められても、犯人が「金が無い」と言えば支払いは受けられない。残虐な犯罪を犯しても、数年で仮出所。賠償金も逃れてのうのうと別の人生を送っている犯罪者が大勢いる。

刑事事件については同時に民事裁判も行い、民営化刑務所での懲役によって得た賃金を被害者への賠償に当てる。刑務所を出ても民事損害賠償履行を追いかけてゆく役所の創設など、「被害回復のためには犯罪者の人権は無力化する」という「新人権主義」の考えには基本的に同感である。

日本でも、昔のアメリカ同様、刑罰は必要悪であり、なるべく軽くという姿勢の裁判官が多かった。しかし、浮世離れした裁判官にも、さすがに世論の批判が次第に届いたか、この本によると、日本でもアメリカを追うように判決は厳罰主義にだんだんと転じているのだとか。死刑は確かに究極の刑罰であって無いほうがよいのはその通り。しかし日本の「無期懲役」は終身刑ではない。重罪犯でも早ければ10年で出所する。矯正できない粗暴犯、異常者については、終身刑の無い現状の法律では残念ながら死刑しか選択肢はありえないと思うのだが。

強硬な死刑廃止論者の中には、「政府のやる事はなんでも悪、我々サヨクの「カシコ」が「アホ」な大衆を教化しなくては」と考えてる連中が混ざってるのではないだろうか。彼らにとっては被害者の人権や救済など、考える価値もない瑣末な事にすぎない。粗暴な少年に奥さんをレイプされた上で殺され、幼児だった娘も殺された被害者が、加害者への極限の刑罰を求めて弁護士に民事訴訟の提起を求めた。しかし、「彼(犯人)は死刑になるかもしれないのに、更に遺族から金を取ろうというのか!」と弁護士に怒鳴りつけられたというエピソードがこの本に紹介されている。この人は有名な「人権派」弁護士だそうであるが、この本末転倒な正義感というのがどこから出てくるのか実に不思議。

「ボウリング・フォー・コロンバイン」で扱われたコロンバイン高校の大量殺戮事件。犯人の少年達は、事件前に窃盗で更生プログラムを受講しており、「すばらしい更生をなしとげた。前途洋洋の素晴らしい青年。」と保護監察官に評価されていたのだとこの本が紹介している。人間を変えることができる。更生させることができる。悪人を真人間にすることができる。こう考えるのは、ひょっとすると人間の傲慢ではないのかとすら思えるエピソードである。