「黒人アスリートはなぜ強いのか―その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る」(ジョン・エンタイン/創元社)読了。 オリンピックの競走や跳躍の歴代世界記録はほとんど黒人が占めている。ボクシング、バスケットボール、フットボールなどのプロスポーツにおいても明らかに黒人選手が優位的な地位を占めているのはなぜか。本書のひとつの側面は、その素朴な疑問に対する探求。 同じアフリカをルーツとする黒人でも、西アフリカ出身は短距離・跳躍系に強く、東アフリカは長距離系のランナーを明らかに突出して多く生んでいる。長距離系では特にケニアのしかも特定の地域が優れた選手を輩出しているのも興味深い事実。医学や体育学など様々な調査を引用しながら、遺伝面、環境面など多面に渡って、どのような身体的特徴が黒人アスリートの優位を生んでいるかを考察した部分が興味深い。 しかし、この本の原題は、 「Taboo : Why black athletes dominate sports and why we are afraid to talk about it (タブー:なぜ黒人アスリートは強いのか、そして、なぜ我々はそれを語ることをためらうのか)」である。邦題からカットされた後半部分、「タブー」にまつわる考察こそが面白い。 現代のアメリカでは、「黒人は天性のアスリートだ」という発言は、人種をステレオタイプ化する差別発言として、一種忌避される表現である。生理学的には確かに平均値を見ても様々な肉体的差異が人種によって認められる。しかし、黒人の肉体的優位性を語る時に、まるでセットのように白人の心にわきあがる、「黒人は肉体は優秀でも知能は劣る」という人種差別的感情の残滓。Politically correctな立場にこだわればこだわるほど、言葉がアメリカ人を自縛し、思考停止に追い込む。なぜ「黒人は天性のアスリートだ」という発言がタブーなのかに関する歴史的考察がこの本のもうひとつの主題だ。 黒人アスリートがいかにして差別と向き合い、その地位を築いてきたか。奴隷制度の昔から、ニグロ・スポーツ・リーグ、そして現代のプロ・スポーツに至る歴史がこの本では読みやすくまとめられている。 そもそも100年前のアメリカでは、「黒人は怠け者でガッツがなく、知能も肉体もすべてにおいて白人に劣る」とされていた。各種のスポーツで黒人がその能力を発揮するようになっても、白人はニグロ・リーグを作ってそこに黒人を隔離しようとする。しかし、黒人のスポーツ進出がさらに進み、様々なフィールドで圧倒的優位を見せ始めた時、白人の心に去来したのは、「黒人は動物に近い」、「筋肉は素晴らしくとも頭を使うスポーツはできない」という差別的反感であった。根深く残る その差別的反感への恐れが、逆に黒人の肉体的能力を賞賛することへのタブーを生み出してゆく。スポーツ大国アメリカの華々しいスポーツの歴史に隠された、重たくそして暗い差別の歴史。 NBAでは、ポイントガードは黒人には無理と言われた時代もあったという。しかし、今ではポジションのほとんどは黒人。アメリカン・フットボールでは、ポジションが細分化されており、NFLでも、チームの司令塔、クォーターバックにはいまだに黒人が少ない。センターやタイトエンドもそうだ。学生時代から、フットボールのコーチは、黒人選手にいわゆる「黒人向き」とされている「ランニング・バック」や「コーナー・バック」でのプレイを勧める傾向があるのだとこの本では書かれている。「黒人は頭を使わない走る役に向いている」という潜在意識に埋め込まれたバイアス。 ゴルフ、テニス、水泳のようないわゆる「クラブハウス・スポーツ」へのマイノリティーの進出、ドーピング、女性アスリートへの差別、人種と知能など、スポーツや差別に関する諸問題についても総括的に取り上げられており、なかなか読み応えがある本。 肉体的な差異があることは認めた上で、平等について考えようというのが著者の主張のように思われる。この本の最後にはこうある。 今や自明のことを認めようではないか。いや、喜んで受け入れようではないか。こう語ったところで、それは人種主義でもなければ妄想でもない。白人にはジャンプができない、と。最後のフレーズ、「White man can not jump(白人は跳べない)」とは、NBAで黒人プレイヤーが白人プレイヤーを揶揄する言葉である。こういう本がアメリカ白人によって書かれたということも興味深い。 実に面白い本なのだが、小さなアラを述べるなら、誤植というか、おそらく翻訳原稿のタイプミスが修正されずに何箇所もある。翻訳そのものは悪くないのに、最終校正がいかにもオソマツ。こういう瑣末なところに版元の地力が出るんだよなあ。 |