「神狩り2」を読んで興味を持った、脳科学の「クオリア」という概念を知るため、「脳の中の小さな神々」(茂木健一郎/柏書房)、「脳と仮想」(茂木健一郎/新潮社)の2冊読了。 前者はインタビュー集、後者は雑誌に連載したエッセイであり、どちらも気楽に読める。この人は最近、ずいぶん本が出ているようだ。「クオリア」とは「質感」とも訳されるが、脳が何かを記憶する感覚の集約した「実感」というか。あの日ふりむいた時の彼女の笑顔。死んだ愛犬が嵐の夜に鳴いた声。あの夏の日の潮風。あるいは、すべての物の味や色、香りの記憶、今でも思い出すあの小説の一節、あの絵、などなど。ふとした時に、最小の単位として思い出されるすべての記憶の固まりのことを「クオリア」と称するらしい。そして、このクオリアの形成を研究することにより脳と記憶の謎にアプローチしている研究があるのだと。 脳科学や認知科学にはまだまだ未知の領域が残っている。ノーベル賞もらった利根川進博士が、これからは脳の研究だと言ってたのを思い出した。著者によると、科学に大革命を呼んだ発見に先行するのはかならず「ぶざま」な理論なのだという。そして自分の研究が、そういった「ぶざま」なものでありたいと。人間の記憶や心の働きは分からないことだらけだが、色んな切り口からの研究が進んでいることを聞くだけでもなかなか面白い。 考えてみると、映画や音楽、絵画や小説などが人間の心に及ぼす感慨や感情のさざ波のようなものも、目の前に提示された何らかのクオリアと、それを受け取る人間の認知作用との微妙な相互作用だ。他者の提示するクオリアは、感情や五感すべての記憶の固まりとして心の中に切り込んでくる。それはディスク・ドライブに書き込むような無機質さではなく、元から受け取る人間の脳にあったクオリアと、何らかの化学反応のようなさざ波の相互作用を起こしながら心の中に定着する。 やや余談ではあるが、「脳と仮想」の中に、著者が友人から、「『坊ちゃん』の中で漱石は主人公ではなく「赤シャツ」なのだ」と阿部謹也が書いていたと教えられ衝撃を受ける話が出てくる。これには私もびっくりしたが、考え直してみるとまったくその通りだ。昔から、無鉄砲で直情径行な「坊ちゃん」と憂鬱気質の漱石とは重ならないとは思ってはいたが、無理に納得していた部分があった。主人公の敵であり嫌味な男だからうっかり見過ごすのだが、この英文学好きのインテリ学士様にはまさに漱石が投影されているのだ。 著者の述べる、「自分が「赤シャツ」であるという痛みを自覚しつつ、「坊ちゃん」の世界観に愛情に満ちた共感を寄せて書いたからあの作品は深い」のだという主張には実に納得。そう、「マドンナ」を「うらなり君」から奪った「赤シャツ」の末路が「こころ」で最後に自殺する「先生」であり、それにもまた漱石の深い憂鬱が投影されているのである。 「漱石は「赤シャツ」」だ、というたった一つの命題でも、人間の心を深くゆさぶることができる。人間の記憶や認知、心の働きというのも実に不思議なもんである。 |