「司法のしゃべりすぎ」(井上薫/新潮新書)読了。日本の裁判における判決文には、その理由欄に主文とは関係のない「蛇足」とも言うべき裁判官の考察やら意見が書かれていることが多く、この意味の無い無駄による弊害を取り除かなければいけないという、現役裁判官による書。 例えばあなたが殺人容疑で取調べをうけるが刑事訴追までには至らず事件から20年を経過した。そんな時、被害者の相続人が殺人による損害賠償1億円を求めあなたを訴えた。民法上では、不法行為に対する損害賠償の除斥期間は20年。殺人を犯したのがあなたであれ誰であれ、当然この請求権は失効している。判決は、この損害賠償を退けるが、理由欄では延々と誰が犯人かの考察を続け、あなたが犯人であると認定していた。この事実認定は主文を導くには何の関係もない「蛇足」である。しかし、新聞は、「やはりあなたが犯人だった」と書き立てる。この判決に対して控訴しても、主文ではあなたが勝っているのだから、「控訴の利益がない」として棄却されるのであった。 これが本書冒頭にある設例であるが、このような判決は実はよく新聞の見出しでも見かける。「高裁、XXを違憲と判断。原告の請求は棄却」という奴である。そういえば、先日の大阪高裁、小泉首相靖国参拝判決でも同様の「蛇足」判断がなされている。 大阪高裁は、首相の参拝が首相の職務行為か、それが憲法の禁止する宗教的活動にあたるかを理由欄で検討して違憲であるとの判断を示したが、原告の本来の請求そのものについては、「一方で、原告の思想や信教の自由などを圧迫、干渉するような利益の侵害はない」として棄却している。果たしてこの主文を導くために、延々と首相の参拝の意味を検討し、「違憲」と判断する必要があったかどうか。 国は裁判そのものには勝っているから控訴できないし、主文とは関係のない「蛇足」はすでに新聞等でまるで「違憲判決」のように扱われている。原告側も1万円の損害賠償を真剣に求めたわけではなかろうから、裁判官の「書き逃げ」的な「蛇足」判断を引き出して、その目的は十分に果たしたということだろう。 もっとも個人的には首相の靖国参拝を積極的に支持する気は毛頭無い。機会があれば別途書くつもりではあるが、靖国は歴史的役割をすでに終えている。戦争で直系の親族を無くした遺族が参拝することに別段異議は唱えないが、A級戦犯合祀は愚な判断だったし、靖国という存在そのものは、できうればこのまま静かに眠らせるべきだ。しかし、訴訟を連発して裁判所の余計な判断を導き出しては、「正義が勝った勝った」と騒ぎ立てる「反靖国」市民団体にも無条件で賛同する訳にもゆかない。彼らの行っていることが正義だとも考えないというのが正直な感想。 この本では、「ロス疑惑」、「中国人強制連行」、「悪魔ちゃん命名事件」、「岩国靖国訴訟」などの判決を取り上げ、いかに本来の判決に必要ない余計な裁判官の判断が判決文に入っているかを丹念に説明し、このような「司法のしゃべりすぎ」が余計な審理の手間と裁判の長期化を招き、司法に対する信頼性を失わせ、ひいては国民にも国家にも裁判所自身にも大きなマイナスの影響を与えていると説く。説明が丹念すぎてくどく感じられる部分もあるが、なかなか面白かった。 |