「仏像は語る〜 何のために作られたのか」(宮元健次/光文社新書)、通勤の行き帰りに読了。 聖徳太子を写したという法隆寺夢殿の救世観音像。像が背負う光背が、異様にも太い釘で後頭部に打ち付けられている。このような仏像は他にないのだという。「隠された十字架」で梅原猛が、この仏像は、謀殺された太子が怨霊とならないよう封印する仕掛けであると述べている。この仏像について述べた最初の章に興味を持って購入。 いとうせいこう、みうらじゅんの「見仏記」が面白かったから、「仏像の見方」について2〜3冊読んだことがあるのだが、専門家の書く細かい話になると、実はさほど面白いものでもない。しかし、この本は、推古、平安の昔から人々が仏像に見た「救い」や「夢」を生き生きと語る。戦乱、病苦が襲う苦しみの現世で、一族の繁栄や世の平和、そして心の平安を求め、人々がどんな祈りを仏像に託したか。そして仏像がどんな運命に翻弄されてきたのか。日本各地の有名な仏像を巡り、幾多のドラマを見出して行く興味深い本。 旧約モーゼの十戒には、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」とある。イスラムでももちろん偶像崇拝は禁止。キリスト教で聖母マリア像やイエス磔刑像が作られるのはヨーロッパ布教時、土着の信仰との融和を図る過程での事と言われるが、父なる神そのものを刻んだ像は確かに無いのだ。 一方、仏教では、釈迦、如来、あるいは観音、明王、そして56億7千万年後に到来して衆生を救う弥勒菩薩など、仏像は多種多様にわたる。我々はなぜ仏像を刻まずにはいられないのか。それは砂漠の一神教とは違うなんらかの心性に由来するのか。この本に掲載された仏像のドラマを辿りながら、そんな事を考えずにはいられない。 著者は1999年に肝硬変で倒れ、危篤状態に陥るが、奇跡的に回復。しかし病はまた再発した。再度の闘病開始がこの本執筆のきっかけになったと本書の後書きにある。仏像にこめられた千年の祈りを巡る本書には、魂の平安を求める著者自身の葛藤と祈りも、またはっきりと投影されているのだ。 昨日の夜は会社帰りに「新橋鶴八」。菊正の冷酒。お通しはイカ塩辛。発酵の濃厚な旨み。厚めに切られたヒラメは歯ごたえよく旨みあり。縁側も美味い。種札には無いのだが、「カツオありますよ」と親方が言うのでもらってみる。背も濃厚なコクあるが、皮目を炙った腹の身が美味い。アワビ塩蒸しもいつも通り結構。シーズン初めのブリは、やはりまだ脂の乗りが薄いか。握りはいつも通り。中トロ2、コハダ2、アナゴ2、そしてカンピョウ巻。いつもと同じものがいつもと同じように美味い。ふんわり握られた酢飯も実に結構。結局タクシー帰宅。 |