「日本の古都はなぜ空襲を免れたか」(吉田守男/朝日文庫)読了。太平洋戦争で、なぜアメリカが京都、奈良、鎌倉といった古都を爆撃しなかったのか。それは古い文化財の歴史的価値をアメリカが認めて爆撃しなかったのだ、という説は、昔からよく聞いた。祖母から聞いた記憶もあるし、親父もそう言ってたし、学校で教師がそう言った記憶もある。この説はずいぶん人口に膾炙しており、日本人なら誰でも聞いたことがあるのでは。しかしその根拠は果たしてどこにあるのか。 戦後のメディアで大々的に報道されたのは、ハーバード大学教授にして美術史家ランドン・ウォーナー(Langdon Warner)が、アメリカ政府と軍部に日本の文化財保護政策を訴えたからであるという説である。戦争前に来日して仏教美術を研究したことのあるウォーナーは、日本の知識人とも面識があり、さもありなんという話でもあった。この説は広く認められ、「日本の古都を救った恩人」としてウォーナー博士の功績を顕彰する碑が日本各地に建立され、命日には日本の寺で法要が営まれるまでになった。 この本は、この「ウォーナー伝説」が事実かどうかを検証するもの。戦後長い時間を経て情報公開されたアメリカ側の史料を分析して、著者が導き出したのは、「ウォーナー伝説」は虚構であり、日本の文化財保護のために爆撃を遠慮する方針など米軍は持っていなかったということ。それどころか、京都は原爆投下の第3の目標都市になっており、通常爆撃が行われていなかったのは、原爆という新型兵器の実戦での威力を厳密に測定するためであったという戦慄の事実であった。 米軍機による爆撃目標は、都市の人口と戦略目標の有無によってシステマティックに決められており、鎌倉、奈良が爆撃されなかったのは単に人口が少なくプライオリティが低かったからで、戦争が更に継続し、全都市の殲滅が目標になったなら当然ながら爆撃対象になっただろうと著者は述べる。勿論例外もあって、気の毒なのは浜松市だ。米軍資料によると、当時同じ程度の人口であった岐阜、岡山に比べて、浜松にはなんと3倍以上の爆弾が投下されている。浜松市は関東を爆撃するB29の進入ルートの直下にあたり、爆弾が余ったり目標への投下を断念して帰還する際、米軍パイロットは浜松上空で全ての搭載爆弾を処分するよう命令されていたのだという。戦争のもたらす悲惨というのも時としてランダムな、なんとも言いようのないところがある。 連合国で、枢軸国に存在する美術品などのリストを作成していたのは事実だが、大半がヨーロッパ戦線でナチスが略奪した美術品を探索する目的であり、日本の文化遺産や古都の価値は、ほとんど興味の対象になっていなかったというのが真相のようだ。日本の古都を爆撃しなかったのはアメリカの寛容さであり、それを進言したのがウォーナーだという「ウォーナー伝説」が広まったのは、実は、戦争が終わってから、対日占領政策を円滑に進行するためのアメリカ軍による対日宣撫活動の一環だったというのが著者の主張。丹念な調査を積み上げたこの本を読むと、確かにその通りだと納得がゆく。 昔も今も、一般のアメリカ人は、まず日本文化に興味などない。爆撃する都市の区別など、アメリカの政治家や軍人の上層部にしても、何ひとつ分かっていたはずはなかろう。戦後、ウォーナー博士は来日を果たしたが、熱烈すぎる歓迎に辟易して不機嫌になる場面さえ見られたとこの本にある。「私は自分の仕事をしただけです」というコメントも、「日本流の謙遜の美徳さえ身につけたウォーナー博士」と日本では賞賛される。ちょっとでも日本に詳しいと「日本通」などと日本人側が持ち上げるのは、やはり一種の抜きがたい島国の劣等感からではないか。それは現代でもあんまり変わってないように思えるが。 この本が、最初に単行本として出版された時の原題は、「京都に原爆を投下せよ」。3発目の原爆は、いつでも投下可能に準備されていた。それが京都に落ちていたら、戦後の日本とアメリカの関係もかなり変わっていたのでは。しかし、玉音放送のその当日まで、「まだ敗けたと決まった訳ではない。本土決戦で決着をつけるのだ」と怒鳴り散らす、途方もなく愚かで頑迷固陋な軍人が陸軍上層部にはたくさんいたそうである。彼らにそのまま従っていたら、最後にはおそらく皇居に原爆が落ちていただろう。あの日に戦争が終わって、やはり正解であった。 |