「世界屠畜紀行」(内澤旬子/解放出版社)読了。 肉が家庭の食卓に上がるためには、世界のどこであれ、誰かが動物を殺し、それを食肉に仕上げる必要がある。そしてそれを流通させる仕組みも必要。この本は、著者が、 日本だけでなく、広くに世界各国に取材し、動物を食肉にする「屠畜(著者は屠殺という言葉を使わない)」の過程をルポルタージュしたもの。著者自身で描いたイラストが多数掲載されており、文章もたいへんに読みやすい。 日本の食肉加工の現場については、「ドキュメント 屠場」という、先行する優れたルポルタージュがある。この本も、日本の屠畜場について、牛だけでなく豚の処理、そして皮の処理に至るまで広く取材している。しかし、この本のもっとも面白い部分は、本の大半を占める、海外屠畜の実情取材を描いた部分。 韓国、バリ、エジプト、イスラム諸国、チェコ、モンゴル、インド。著者が訪れた国で、人々はどのように「屠畜」に接しているのか。そして、その差別意識は。どのように家畜が食肉となってゆくのか。世界の実に様々な国で、家畜を食肉にする「屠畜」という行為が、それぞれの国の伝統を反映しながらも、一般家庭の食卓にどれだけ密着した祝祭的行為であったかということを、真摯な著者の取材は生き生きと描き出して見せる。特段のイデオロギー臭を感じさせることなく、世界の国を珍しい角度で俯瞰したエッセイとして出色の出来。 著作の後半、アメリカ、巨大工場の如し食肉加工場を取材する部分は、以前読んだ、 「だから、アメリカの牛肉は危ない!」(原題は、「Slaughterhouse Blues(屠畜場ブルース)」)にも描かれていた通り。 著者の、世界の食肉処理の現場に「差別」がどのように影響しているかを知りたいという問題意識も、この著作の随所に印象的な陰影を与えている。屠畜の場を訪問して、純粋な好奇心にあふれ、嬉々としてあちこちの場面を見て回る著者は、一般的な日本の常識では、ちょっと変わった女性であるとも思える。しかし難しい理屈を意識せずとも、実に興味深い紀行エッセイとしても成立しているのが、この著者の書き手としての可塑的な力量を感じる部分。読み応えのあるノンフィクション。 |