MADE IN JAPAN! 過去ログ

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1997/07/24 「オカルト資本主義」 斎藤貴男著 文芸春秋
大きな書店のコーナーに、精神世界の本、とかニューサイエンスとかオカルトの棚が出来だして、もう10年以上になるだろう。ちょうどオウム真理教も、このような一種の流行を巧みに、と言うか麻原の粗雑な知性なりに、と言う事だが、教義や出版物に取り入れて信者を獲得していった事はよく知られている。

この本は、このようなオカルト思想の影響が、宗教教団だけでなく、現実の企業の世界にも着々と入り込んでいる実例を、色々とレポートしている。ソニーが、超感覚知覚や気功といった超科学の分野の研究を一部の部門で進めているのはすでにマスコミにも公開されている。これは、まあ創業者、井深大の道楽みたいなものらしいが、超能力についての実験をその再現性にこだわらずに進める、と言った従来の科学のパラダイムから大きく逸脱した手法は、まさにオカルト研究と呼ぶしかないだろう。

いまだに、永久機関の原理研究のスポンサーに名乗りをあげる企業が後をたたなかったり、なかには役所が後援している研究もあると言うのも驚きだ。永久機関については、たとえば特許申請も無条件で却下されると聞いた事があるが、金もうけと結びつけば、どんな荒唐無稽な説でもそれなりに有効と言う事か。

万能微生物EMも、もともとは、単なる土壌改良の為の農学の研究だったはずだが、昨今、「脳内革命」などのデタラメ本を熱心に推薦するオカルトフィクサー、船井研究所会長の船井幸雄によって、世界を変える偉大な研究と持ち上げられて、世界救世教とも結びついてまるで宗教とも言える盛り上がりを見せている。

京セラの稲森会長を神のごとく称える経営者の会や、農本主義から逸脱してもはやカルト集団となりつつあるヤマギシ会。新興宗教だけを敬遠していればだまされない、という時期はすでに過ぎて、実際のビジネスや企業活動に根をおろしたオカルト思想が、またナイーブな人をコロッとだます時代になってきたとも事なのか。いずれにせよ、ものを信じやすい単細胞な人を収奪して金を儲けようとする人間がいる限り、世の中はいつだって住みにくくできている。


1997/06/28 「火星の人類学者」 オリバー・サックス著 早川書房
これは脳神経医である著者が、巡り合った7名の脳神経に障害を持つ患者に関する医学エッセイ。突然に色覚障害に陥った画家、脳腫瘍の為最近の記憶を失い、いまだ60年代に生きるヒッピー、何十年も盲目だった後人工水晶体移植を受けたが、物が見えると言う事にどうしても慣れる事ができず、盲目に戻っていった男など。どちらかと言うと精神病ではなく、脳神経に異常を起こした患者の遭遇する奇妙で興味深い世界を覗き見れるレポートだ。

例えば、水晶体に障害があって盲目だった患者の場合、人工レンズに変えれば突然に世界が見えるように素人は考えがちだが、彼の場合はそうならなかった。網膜には像は写るものの、それが何かを判別できない。写真と現実の風景との区別がつかない、物の輪郭が分からない。つまり、見るという行為は、脳神経の複雑な統合作用であって、何十年もその機能を使用していなかった患者には、網膜に像が写る事は福音にはならなかった。たとえ像が見えていたとしても、手で触らなければ安心できない。結局、網膜には異常はないのに、彼は見る能力を失ってゆく、と言うより、長年慣れ親しんだ安住の地、盲人の世界へ戻って行くのだ。

自閉症ではあるが、動物学で博士号を取り、大学で教鞭をとるまでになった女性の話も興味深い。自閉症と言うと、ダスティン・ホフマンの「レイン・マン」、を思い出す人も多いだろう。通常、自閉症は、自己や他人と情緒的な交流ができず、その固着性の為に知的想像力を発揮するのは困難と見られている。しかし、彼女は心理学や動物学への興味を持ち続け、勉強する事により現在では自分の会社を経営するまでに至った。現在でも、人一倍の知性を持ちながら、他者の情緒的反応や心的動機がまったく理解できず、他人に共感する事もない。いわゆる、通常の人付き合いはまったくできないままだ。本書の題名の「火星の人類学者」とは、通常の人ならだれでも直感的に理解できる人間の感情を、まるで知的な研究対象のように客観化して、こんな時はこうするとデータの集積としてしか理解できなかった彼女が、自分自身に与えた呼称だ。

彼女はリラックスしたくなると、学生の頃から、自分自身で設計して作った「締め上げ機」に横たわり、コンプレッサにより全身に軽い圧力をかける。機械に抱きしめられて、心からリラックスする人間。彼女自身は、生身の人間に抱きしめられるような、他の人間との直接接触には堪える事はできない。なんだか、ちょっと悲しいSFを思い出す。なんだっけ、ウイリアム・ギブソンであったなあ。

彼女自身は、自閉症の為に、今後とも、他人に共感して付き合えるような人生は彼女には許されていない事を理解している。しかし、それでもなお、著者に、遺伝子ではなく私の生きた証をこの世に残して死にたいと訴える。それは、なんらかの著作かもしれないし、学問の上での業績かもしれない。自閉症の人間にして、やはり自分の存在を残したいと言う魂からの欲求があり、やはり、それはそれで、彼女の大切な人生に違いない。たとえそれが他者とちょっと違ったものであったにせよ。著者の眼が、そういう脳神経障害を持った人に暖かいのが印象に残る。でなければ、たんなる興味本位の読み物に終わるところだが、それがこの本の、ある種の救いになっているのは間違いない。


1997/06/18 「レックス・ムンディ」 荒俣宏著 集英社

荒俣宏は、博覧強記な博物オタクだが、本当の事を言うと、あまりうまい小説家とは言えない。アドベンチャー・ホラーと名乗ったこの小説は、例えば、こんなキーワードに、ハマるひとなら面白いだろう。北緯30度に並ぶ世界の聖地、世界の王の復活、レイ・ライン、マグダラのマリアの結婚、テンプル騎士団、トリノの聖骸布とダ・ビンチ、ケルトの黒マリア、キリストの遺体、地磁気逆転説、アカシック・レコード。

上記のキーワードに、ミトコンドリア・イヴとインディ・ジョーンズをぶち込んでガラガラかき混ぜると、この小説になるだろう。最後のほうは、ジョン・カーペンター監督のB級映画、「Prince of darkness」を思い出した。

しかし、素材を沢山詰め込んでいるわりには、小説的なふくらみがあまりなく、なんだか、予告編だけを延々と繋いだ映画を見せられたような印象が残る。ちょうど「帝都物語」の映画を見た時のように。でも、何でも高い世の中で、2000円で、3時間楽しめれば、買う価値はある。読むのが遅い人は、もっと長時間楽しめる。しかし、本棚に長く残す価値は多分ないだろう。

こういうオカルト・宗教・とんでも物の雑多なエッセンスを織り込んで楽しめるエンタテインメントとしては、ウンベルト・エーコの「フーコーの振り子」 のほうが、数段優れている。「薔薇の名前」が、商業的成功を収めた為、一部では、「振り子」は、駄作と呼ぶ向きもあるが、私は、ずっとこっちのほうが好きだ。これを超える作品はそう出るものではないと思っている。しかし、そう言えば、「薔薇の名前」って、こっちのセル・ビデオでは見た事無いなあ。不思議だ。


1997/06/09 「死海文書の謎」 マイケル・ベイジェントリ、リチャード・リー共著 柏書房

この本が、エヴァンゲリオンおたくに売れていると言う記事を、読売新聞で読んだのは、もうずいぶん前の事だ。だからと言って、買ったのではなく、私の手元にあるのは、92年に購入した、第一刷だ。アニメも見ないし、エヴァンゲリオン(結構日記猿人にもあちこちで、この名前見ますね)も見た事ないが、そんなに面白い事が書いてあったっけと、読み返してみた。私は特定の信仰は持っていないが、史的イエスの復元問題に興味があった時、関連して購入した一冊だったと思う。柏書房も、時ならぬ、おたくの殺到に、増刷してホクホクではないだろうか。

この本は、1947年にクムラン洞窟で発見された、いわゆる死海文書(写本とする本もある)について、発見後45年も経つのに、バチカンの影響下にある解読国際チームのみが原本を独占保管し他の研究者に見せようとしない、その秘密主義的なやり方を批判し、文章の公開を迫る為に1991年に英国で出版された。

で、実際には92年に、カリフォルニアの図書館が、(当該文書がイスラエルの手に渡る前に撮られた)死海文書の完全な写真コピーを保有している事を発表し、全世界の研究者にアクセスを認めた為、この本の目的は果たされ、死海文書はもう隠された謎ではなく、全世界の学者の自由な研究の対象となっている。

さて、その文書の内容に、オカルト好きや、SFアニメ愛好者が喜びそうな、例えば、キリストは宇宙人だった、とか、隠されていた神との契約、とか、何千年後かの人類救済の謎の計画、とかの荒唐無稽な(笑)内容が含まれているかと言えば、全然含まれていない、と言うのが、少なくとも現時点の回答だ。92年から、全世界の聖書史学や考古学の研究者にコピーが公開されているのだから、そんな物があれば、とっくに大騒ぎになっているはず。いまだにオカルト雑誌なんかには、ナイーヴで無知な読者を欺いて、無責任に謎を煽る記事を出している所があるようだが。

では、現実世界に与える影響は全然ないのか、と言うと、ちょっとあるようだ。この本の記述を信じるならば、バチカンを頂点としたカトリックの一部の人々は、今までの経緯からして、あまり文章の公開を望んでいないように見える。国際チームは、この文書は紀元前100年以前の、ユダヤ教の他の勢力とは隔絶した、エッセネ派の手になるものである、という暫定的な結論を公開している。

しかし、これについてこの本では、考古学や書誌学的な見地から、テキストの年代は紀元前から紀元後1〜2世紀までに渡ると思われる事、また、世間から隔絶したエッセネ派ではなく、政治的にも宗教的にも、ユダヤ世界で他の勢力と色々関係のあったゼロス党に帰すべきものではないか、との研究を紹介し、疑問を提示している。

これが、なぜ、キリスト教に影響があるかと言うと、もしもこの本の言う通りなら、新約聖書が編纂され、原始キリスト教団が成立した、と言われる紀元後1世紀前後の状況について、この文書が、なんらかの新しい事実を提示する可能性があるからだ。例えば、イエス・キリストは本当に実在したのか、イエスの教えは本当にユダヤ教の伝統から離れたまったく新しい契約だったのかどうか、原始教団におけるパウロの伝道は、義人ヤコブの立場とどのように違っていたか、あるいは同じであったか。

これらの問いは、キリスト教の信者にとっては、問うべきなんの理由もないのであるが、従来より、批判的聖書史観にたつ学者達にとっては大問題で、研究が進められてきた経緯がある。しかし、その手法は、新約聖書そのものの、文献史的研究によるほかなく、今世紀に入って、ブルトマン等による共観福音書の2資料説等、見るべき成果はあったものの、結局のところ、これらは、極めて合理的ではあるが、やはり推測にすぎない。要するに新約聖書のみを研究して、新約聖書の真実性を究明する事には限界がある。しかし、もし、死海文書が、本当に著者の言う通りの時代と背景を持っていれば、上記の問いに対する回答や、まったく新しい事実が判明する可能性も、大いにあると言うことだ。

この本の著者の立場は、かなり極端に反キリスト教寄りで、イエスの教えは、従来のユダヤ教の一派の延長であって、正当な信仰の継承者ヤコブに反対の立場をとる、当時の異端者、パウロによって作り上げられたものである、との(ちょっと恐い)結論にまで達している。私には、なんとも判断がつきかねるが。ただ、今後の研究の進展によって、原始キリスト教団の歴史について、なんらかの新しい発見がなされる事は、十分期待できるだろう。また、実際のクムラン洞窟の再度の考古学的調査や、ベドウィンから、闇ルートで流れ出し、考古学の素人好事家が多数保有していると見られる、これ以外の写本の探索も、始まったばかりである。念のため、付け加えておくと、当時の文献から見てどうであろうとも、現在、キリスト教の信仰を生きているひとの立場は、十分尊重されるべきであろうし、また、この種の研究が、その信仰に大きな影響を与えるとは考えられないが。


1997/06/04 「宇宙のランデブー」 アーサー・C・クラーク 早川書房

昨日の夕方、サンノゼの紀伊国屋書店をぶらぶらしていると、文庫本の棚の、早川SF文庫に目が止まった。ここは、シカゴ八百半内の旭屋書店よりも、心なしか、SFの文庫そろえが、いいような気がする。もっとも、SF冬の時代だそうで、昔の名作が中心になっているのはしょうがない。読んだ事のある本がほとんどだが、シカゴへの帰りの機内用に、この本と、ハインラインの「夏への扉」 二冊を、懐かしかったので購入。機内で再読していると、やはり、懐かしのクラーク・ワールドにどっぷりひたれて、感慨ひとしおだった。やはり70年代SFはいいよなあ。

たまたま、今日再読した本の題名を上に書いたが、クラークに関しては、別に、この本に限らず、どの本を読んでも同じだな。いやいや、それは、悪い意味ではなく、駄作が無いと言う意味で。一番好きなのは、もちろん、当時の(と、今となっては、言わなくてはならないが)科学の先端の知識を盛り込みながら、実は、焦点はそこになんてなく、未来世界の、現実とは離れた状況において、詩情あふれる、常に人間性を肯定した、明るい、クラーク流世界が、いつもそこに描かれている事だ。

クラークの作品世界には、本当の悪人や、理解に苦しむ人物は出てこない。残虐、謀略、狂気、嫉妬、金銭欲、性愛、そねみ、妬み、嫁姑の確執(そんなのSFにないよ)などの、現代の小説世界にはあたりまえの、人間の心の影の部分には、彼の興味はない。

例えば、この本のように、はるか未来に、小惑星探知システムが、太陽系に進入してきた奇妙な物体をとらえる、当初は、軌道を外れた小惑星と見られていたが、探索機を飛ばすと、それが、何十キロの長さを持つ、金属でできた、まるで宇宙船のような、人工物だと、わかる。しかし、この物体は、自力で航行している様子もなく、あと数週間で、観測可能な太陽系領域を通り過ぎてしまう。人類は、この初めての、異種文明とのファースト・コンタクトをどのように行うか。これを描くのが最大の目的であって、人物描写ばかりやっていては、肝心の本題にたどりつく前に、ページが尽きてしまう。そう言う意味では、プロットが単調だとか、人物が書けていないとかの、批評は、SF全般に言えるかも知れない。私には、あまり気にはならないけど。そういうのを見たければ、「渡る世間は鬼ばかり」 をTVで見ればいいと思う(笑)。

でも、最近はSF冬時代とかで、新刊もめっきり減ったのは寂しいかぎりだ。アメリカの本屋には、まだまだ、SFは大きなジャンルで、本を置いてある棚は、沢山あるのだが。これは、根拠ない私の推測だが、宇宙戦艦なんとかや、ガンダムとか、SFアニメおたくが出てくるのと時を同じくして、文学としてのSFが衰退に向かっていったような気がする。その因果関係については、はっきりとした説明が思い付かないが。


1997/05/31 「DNA伝説 〜文化のイコンとしての遺伝子〜」 ドロシー・ネルキン他、紀伊国屋書店

分子生物学の発展に伴って、遺伝子の持つ謎が、次々と解明されようとしている。この本は、その科学的な側面ではなく、研究の急速な進歩に伴って、アメリカのテレビや映画のような大衆文化にも、遺伝子が、一種の偶像として、さまざまな形で、取り上げられるようになった、現在の状況を興味深くレポートしている。翻訳が悪いのか、筆者の主張がいまいち明確には汲み取れないが、実際、遺伝子に関するさまざまな、玉石混交の情報が、実社会には入り乱れている。利己的遺伝子なんて、いわゆる与太話だと思うが。

身体的な特徴や、ある種の病気が、遺伝する事は、事実だが、アメリカに限らず、日本でも、いまだ、検証されていない事実まで、DNAに関連して信じ込まれている場合がある。カエルの子はカエルと言うが、例えば、犯罪的性格は遺伝するのか、音楽家の子孫は、音楽家として才能があるかと言った場合、何十人も音楽家を輩出した家系とか、何十人も犯罪者を生み出した家系についての、昔の研究に言及される事が多いが、誕生後の環境の影響を無視する事はできない。

生まれた時から貧乏で、暴力的な両親に虐待され、娘が父親や兄貴の子どもを生むような、凄惨な家庭に育った子どもに、教養のある聖人になれと言っても無理な話だ。犯罪遺伝子があるとか、天才遺伝子があると言った過去の研究は、こうした、特定の悲惨な、あるいはまったく逆に非常に恵まれた、一家を取り上げて論を立てている場合が多いので、注意が必要だ。

実際、一族の男性が、全部東京大学なんて、家系も聞くけれど、遺伝的な影響もあるかもしれないが、母親が、回りを見て、子どもの頃から発破を掛け続けている影響のほうが、強いんじゃないだろうか。あまり、プレッシャーを子どもにかけすぎると、両親が寝静まった寝室に金属バットを持ってやってくる事になる。I.N.君、懐かしいなあ(笑)。

筆者が、恐らく警鐘を鳴らそうとしているのは、この遺伝子万能視の風潮が、白色人種に付きまとう、忌まわしい亡霊である、人種差別思想や、白人優生思想と結びつく事、また、なにごとも遺伝子ですでに決定済みであるから、努力は不用と言った、無気力思想に、結びつく事のように思える。黒人は、遺伝的に音楽や運動は得意だが、勉強はできない、とか、俺がアル中になったのは親父からもらったアル中遺伝子のせい、など。ホモ遺伝子まであるなんて説もあるが、現段階では、身体的な特徴以外が遺伝する、科学的な根拠は無きに等しい。利己的遺伝子なるものも、最近はやりの一種の推論だが、科学的根拠があるとは思えない。まあ星占いと、どっこいどっこいではないだろうか。

現在進行中のヒトゲノム計画では、人間の遺伝子の構造の全解析を目標としているらしいが、いまだ、5%程度が解析されたに過ぎないそうだ。確かに、いくつもの病気の引き金になる遺伝子を次々と発見している点は、人類の医療や予防医学に対する大きな貢献ではある。しかし、本当に、人の才能や、精神面や、情操面にも、遺伝子の与える影響があるのだろうか。もしもそうだとすると、遺伝子の全文法構造が明らかになったならば、それは、人類にとって、本当の福音となるだろうか。それとも、劣等形質を淘汰して、優秀な種のみを残そうという、ちょっと恐ろしい考えに結びついて行くのではないだろうか。

子どもを生む前に、配偶者との遺伝子分析を受ける。コンピュータのレポートによると、95%の確率で、あなたのお子さんは、体格的には平均に劣り、知能的にも、平均以下でしょう。消化器系のガンにかかる可能性が高く、寿命も平均以下です。これと言った優れた才能はなく、性格的には、短期で飽きっぽく、犯罪傾向も出ています。さあ、それでも生みますか。などと聞かれるような未来が到来するのだろうか(笑)。そんな世界には住みたくないなあ。

余談だが、大学時代、六甲台から阪急に降りていった所に、名前は忘れたが喫茶店があり、まだ30台のママが1人でバイトを使って切り盛りしていた。私の友人がその店でバイトしていたので聞いた話。

店の上が住居で、小さな娘がいたが、母親そっくり。ママの母親も住んでいたが、これまたうりふたつ。でもどこにも父親らしい男の影は全然ない。そっくりな母娘3世代だけで暮らしていたそうだ。きっと、細胞分裂で増えていたんだな。<コラコラ。今ごろは第4世代が生まれているに違いない(笑)


1997/05/30 「沈黙のファイル」 共同通信社会部編 共同通信社

こんなページを作った事を自分でも忘れていた(笑)。ずいぶん日付があいちゃったなあ。この本は、元大本営参謀にしてシベリアに11年の抑留生活後、日本に帰国、伊藤忠商事会長にまで上り詰めて、政財界に暗然たる力を持っていた、瀬島龍三の謎に迫るというルポルタージュ。新刊かと思っていたが、96年4月初版。停滞在庫を、平積みに混ぜたな(笑)<シカゴ旭屋書店。

こういう通信社の複数の記者による、ルポルタージュは、だいたい視点が一本に定まらずに、散漫になりがちだが、この本も例外ではない。ただ、なかなか興味深い新発見の事実も含まれている。例えば、シベリアへの捕虜抑留について、当時の関東軍司令部、あるいは参謀本部が、戦争賠償金や自らの地位保全といった事項で、ソ連と、停戦交渉時に、なんらかの密約をして、その見返りに、日本兵士がシベリアに強制労働の為、連れていかれたと言う説が昔からささやかれて来た。なかには、瀬島本人をその密約の張本人とするむきもあったが、本書によるコワレンコ元ソ連共産党国際部長とのインタビューでは、一端の事実が明らかにされる。要するに、満州で行われた停戦交渉なるものは、勝者たるソ連の一方的要求の通告のみで、関東軍参謀本部は、密約どころか、捕虜となった、みずからの兵士の地位保全の要求すらしていない。わずかに、将校に対する特権的地位(副官をつける等)の継続を懇願しているのみ。旧日本軍の幹部と言うのも実になさけない。

その外、インドネシア、韓国の戦争賠償金をめぐる総合商社の汚い、(裏金を要求する、先方の国のおえらがたが汚いという見方もあろうが)ビジネスや、旧軍関係者が、結局、戦後も防衛庁、自衛隊に生き延び、結果的にそれが、自衛隊の装備発注をめぐる、総合商社の政界をも巻き込んだ、巨大なビジネスとなっていく経緯も興味深い。結局これが、ロッキードやグラマンの疑惑に結びついてゆくわけだ。

うちの会社も商社の端くれだが、実弾を撃つ(賄賂として、現金を取り引き先やブローカーに渡す)事は許していないので、こんなでかいビジネスには縁がないが、そんな事をやらされたら嫌だろうな。真面目な会社でよかった(笑)。先日、某アジアの国に駐在していた銀行マンと話す機会があったが、その国では、総合商社から、急に現金を用意してくれ、なんて言う話は日常茶飯事らしい。政府高官等に賄賂やコミッションとして渡すと思われるが、できるだけ古いドル札で、なんて言われるそうだ。銀行さんも大変だよな。まるで、誘拐の身の代金みたい(笑)。


1997/04/29 「トンデモ超常現象99の真相」 と学会著 洋泉社

私は小・中学生の頃、SFにはまった時代があり、クラーク、アシモフ、レム等の過去の名作を読みふけるとともに、UFOだとか、謎の古代遺跡だとか、超常現象等の本も、読みふけったという(今となっては少々恥ずかしい)過去を持っている。しかし、高校生 くらいの頃から、どうもこのてのいわゆる”とんでも”本の著者の理論や、人格にさすがに疑問を感じるようになり、今度は反対の、いわゆるSKEPTICな本を次々と読んでゆき、”とんでも本”はエンターテインメントとして楽しむようになっていった。そんな意味で依然と学会の出版した第1弾には、喝采を送ったひとりだ。

この本は第3弾で、まあ、いままでの集大成として、世にはびこるあらゆる超常現象について、単純明快にその欺瞞や、信用できない点などを冗談まじりに暴いて、むしろ楽しんでいるものだ。私自身も、このへんの話は嫌いではないので、知っている話も多かったが、昔から、信じられないと思っていた話の裏話が載っていて、楽しめた。UFOや超能力、古代神秘思想や古代文明の謎などを、単純に信じきっているひとは少ないと思うが、なにしろこのへんの業界はウソつきが多いので、まじめで、”とんでも思想”に免疫がない人ほど、ころっといかれる。

夢がある程度ですめば害はないのだが、それが高じて、集団自殺だとか、他人を殺すとこまでゆくと、世も末です。セックスと金と権力だけを追い求めるだけに結局成り果てた、いま法廷に引きずり出されている、あのくそブタが空中浮揚できるなんて、そんなナイーブな事を本当に信じていた某教団の人に何年も前に読ませてあげたかった。著者たちは、このシリーズは単なるエンタテインメントで、そんな深い意味は迷惑と言うかもしれないが(笑)。

(余談ですが、私は、その某教団の元大蔵大臣(笑)にして最初の解脱者である女性と同い年なんです。いわゆるオウム世代ですね。あ、ここで教団名を出しちゃ、せっかく某教団なんていっても同じ事なんだけど。ま、いいや。しかし、かれこれ10年くらい前か、まだ無名の、その教祖の空中浮揚の写真を、始めて雑誌でみた時は大爆笑。体全体に力が入っていて、座禅を組んだまま、一生懸命ピョンピョン飛んでいるとしか見えない。まともな連続写真もなく、いくつかのショットでも、ワンフレームごとに体の格好が全部違っていて、連続性がない。1回1回飛び上がるごとにシャッタを切ったものとしか思えませんでしたね。いやいやご苦労な事です。でもそう言う、冗談のレベルで終わっていればよかったのに)


1997/04/15 「ネアンデルタールの謎」 ジェイムズ・クリーク著 角川書店

「ネアンデルタール」という小説も発売されており、スピルバーグが監督するなどど、とりざたされているが、この本は、ジャーナリストである著者が、人類進化の謎を追って、最先端の研究を紹介してゆく、サイエンス・ノンフィクションである。昔から、ネアンデルタール人と原生人類(クロマニヨン人)の間には、連続的な進化とは考えにくい、かなりの肉体的相違があり、人類進化の謎とされていた。宇宙人来訪説で有名(?)な、エーリッヒ・フォン・デニケンも、古代に飛来した宇宙人により、人類が改造されたなどど説を唱えていたのを懐かしく(笑)思い出した。「2001年宇宙の旅」のモノリスを彷彿させるファンタジーだが、実際の科学では、人類の進化に関する研究は、考古学的発掘や、ミトコンドリア・DNAの比較研究等さまざまな立場から進められており、いくつもの対立した説が存在する。

ニュースウイークにも大々的に取り上げられた、ミトコンドリア・イブ仮説は、その後の反証により、その当初の衝撃的なインパクトは失ったが、原生人類の起源が、従来考えられていたよりかなり新しい事を示す証拠には依然なりうるようだ。

しかし考古学的発掘からは、ネアンデルタールが、従来考えられていたより、かなり後まで生存していた事を示す証拠や、逆に、原生人類への段階的な進化が認められると主張するものもあり、まだ確定的な結論はでていないらしい。この本は、著者そのものが、最先端の研究者との面談の旅を続ける過程で、次々と最近の科学的論争に直面し、本人そのものが、いったいどちらが真実なのかと、迷う様が、まるで上質のミステリーでも読むような感覚で読めるので、興味深い。

DNA仮説を仮に単純に信じるのなら、およそ13万年前のアフリカのどこかで、おそらくはネアンデルタールの部族から、突然 「新しいヒト」 が誕生し、その数を増やしながら、すでに多数のネアンデルタールが住んでいた、ヨーロッパ、中東、アジア全世界へと、数万年の果てしない旅に出る。すでに何十万年も前に起こってしまった事を、確定的に証明することは難しいが、ミトコンドリア・イヴ仮説による「新人」の誕生の仮説は、どこかクラークの「幼年期の終わり」を思い出させる。今の原生人類、ホモ・サピエンスにも、そのようなブレイク・スルーが起こるだろうか。


1997/04/05 「アンダーグラウンド」 村上春樹著 講談社

私の勤めている会社の本社は、駅で言えば、銀座線の虎ノ門、あるいは日比谷線、丸の内線の霞ヶ関駅の付近であり、ちょうどサリン事件の起こった中心地にある。実際に社員でも、軽いめまい程度をおこした人はいるらしい。日本で勤務していれば、通勤時間にあたり、私はいつも神谷町で8時ちょっと過ぎに降りて歩く事にしていたから、事件に出くわす可能性も十分あったわけだ。さて、肝心の本だが、私は村上春樹の小説は実は読んだことがない。日本のいわゆる純文学は基本的に読まないというのもあるが、昔、ノルウェイの森が、書店に並んだ時、装丁が強烈に目をひいたのはさることながら、初版から、どこの本屋にも圧倒的な部数で平積みされている商業主義的物量に辟易して、これはベストセラーになる、だから読まないでおこうと思ったものだ。普段、本など読んだこともない人が、こぞって読むからベストセラーになるんだもの。内容はあとで誰かに聞けばいいやと思った。

で、いよいよ本題の、この本。ご承知のとおり被害にあった人々のインタビュー集で、なかなか丹念に証言を集めてある。さすがに作家らしく、事件とは一見、直接関係のない個人の生活の断片を引き出してゆくインタビュー手法が、この事件がなんの関係もない普通の人々にあたえた途方もない衝撃を、かえってくっきりと浮かび上がらせている。取材手法や、材料の選択についても、被害者の人権に十分配慮した真摯な姿勢が感じられる。オウムそのものについては、公判中の事もあってか、少々慎重な扱いのようだ。インタビューそのものについては、一番最初登場する「和泉 きよか」 さんが印象に残った、以外に女性のほうがこんな時はしっかりしているのかもしれない。全体として作者の基本的に真面目な取材の仕方が感じられ、村上春樹そのものにも好感を持った。でも多分小説は読まないけど。

新聞広告が出たときすぐに日本に発注したのだが、やはり、作者のネーム・バリューか、日本書店にもその後何十冊(はおおげさか?)も積まれている。結局日本でベスト・セラーになったようだ。なるほど。