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1999/11/07 「われ万死に値す」〜竹下登の闇

夕方から気分転換にちょっと散歩に出る。腰のほうは、すっかり痛みは無くなった。神田までブラブラ歩いた後、地下鉄で銀座まで。旭屋で色々本を物色。「われ万死に値す〜ドキュメント竹下登〜」(岩瀬達哉/新潮社)他2冊を購入。夕食後、帰宅してから読み進める。

元総理である竹下登は、「気配りの人」、「怒った顔を見たことがない」などとも評されて、好々爺然とした風貌でもあるのだが、この政治家の経歴には、どこか深い闇を感じさせる血の匂いがする。

なぜなら、政治家、竹下の経歴には、常人があまり経験しないような、いくつかの死がまとわりついているからだ。

第二次大戦、本人が海軍出征中に、竹下の最初の妻は20歳で自殺している。本人60歳の時、親分であった田中角栄の寝首をかく形で、自分の新派閥、創政会を結成したが、憤激した角栄は、その直後に脳卒中で倒れる。角栄は、その後9年行きのびるが、政治家としてはここで死んだ。リクルート事件にからんで、30年来のつきあいであった金庫番、秘書の青木伊平が不審な状況で自殺したことも記憶に残っている。

竹下が、どんなことがあっても自分の本心を隠し、回りには気配りしながらも、心中に政治権力への飽くなき執着を抱くようになったのは、最初の夫人の自殺後だったと言われる。夫人の自殺の原因は、竹下の実父、勇造の過度の「干渉」に悩んでのことであったと伝えられるが、竹下は、兵役から帰還後も、父親とのいさかいを表に見せず、ただただ我慢を重ねて、卑屈なまでに周到に気を配り、貸しを作り、敵を作らない戦略と、根回しによって着実に政治家として権力の階段を登って行った。

この本では、特に、皇民党の「ホメ殺し」事件の黒幕が、新潟出身で角栄に大きな恩義を感じていた、佐川急便創業者の佐川会長ではなかったかと示唆されている点が興味深い。皇民党ホメ殺しの収拾に動いたのは、東京佐川急便の渡邊会長であり、この事件には、おそらく、佐川急便内部の権力抗争もからんでいるのだろう。

竹下自身は、念願の総理の座に上り詰めるも、リクルート事件で無念の退陣。この本の題名である、「われ万死に値す」というのは、リクルート事件追及の委員会で、青木伊平氏の死について、それが竹下自身の政治体質に由来するものではないかと追求されたときに竹下が述べた言葉である。

しかし、「万死に値する」どころか、竹下はその後も、暗然たる力を持ちつづけ、自分の後釜には、自身の影響力を保つため、宇野、海部と超軽量政治家を抜擢。自民党が野党となっても、最終的には様々な参院や野党とのパイプを使って、政権復帰したのには、竹下の暗躍があったと伝えられている。

現在の小渕総理も元竹下派の腹心。これを据えたのは、先の見えない時代には、とりあえずエースは温存して、当たり障りのない凡人で行こうとの竹下戦略だったと著者は言う。失敗して評価が最低でも、もともと、万一うまくいったら、そもそもの前評判が低いのだから、評価はうなぎ上りで、一石二鳥である。小渕内閣組閣後の支持率が30%と聞いて、「えっ、そんなに高いのか」と竹下は驚いたと書かれている。それにしても国民もなめられたもんだなあ。

お目付け役に当てた先代の官房長官、野中広務も青年団活動の頃からの竹下の腹心。前参院幹事長で今度の官房長官、青木幹雄も早稲田雄弁会で竹下人脈に繋がる人物で、やはり竹下のコントロール下にあった。

しかし、気配りの仮面の下に隠した飽くなき権力欲で、闇の権勢を誇ってきた竹下登も、現在は病床にあり、政治的にはほとんど危篤状態である。どんな権力も永久には続かない。ちょうど、今の年齢が、田中角栄が亡くなったのと同じ75歳なのだそうだ。