飲み疲れと風邪で本日はダウン。考えて見ると、来週の土曜日には、成田からパースに出発するのだよなあ。この週末に、年賀状書きと部屋の大掃除を片付けておく予定だったのだが、まだ何もしてない。喉の調子も悪いし、熱もちょっとあるようなので、何もやる気にならずに部屋でゴロゴロ。
午後は、「そして謎は残った〜伝説の登山家マロニー発見記〜」(ヨッヘン・へムレブ他・文藝春秋)読了。世界最高峰のエヴェレスト(チョモランマ)に世界で初めて登頂したのは、1953年のヒラリー卿とシェルパのテンジンであることは有名だが、その29年前、1924年のイギリス登山隊に参加した高名な登山家、ジョージ・マロリーは若いアンドルー・アーヴィンとともに、第6キャンプから頂上へアタックしたが、その後、キャンプに二度と帰りつくことなく消息を絶った。当日の昼過ぎに、途中のルートを登攀中の2名が、キャンプに残った隊員に目撃されており、ひょっとしたら、彼らが人類史上最初のエベレスト登頂を果たした後、遭難したのではないかとの観測がなされてきた。
本年の5月に、マロリー・アーヴィン捜索遠征隊によって、マロリー本人の遺体がエヴェレストの標高8160メートル地点で発見されたことは、世界中を駆け巡った大ニュースとなったが、この本は、この捜索プロジェクトを編成した3名が共著でプロジェクトの進行とその発見について述べたもの。
遭難から75年経ってもマロリーの遺体は高山の低温と乾燥によって、驚くほど破損していない。足や助骨には骨折が見られ、また額部の頭蓋骨も大きく破損しており、おそらくはこれが致命傷であったようだ。マロリーは、足を踏み外して滑落したことは明かだ。伝説の登山家マロニーにして、やはり滑落で命を落とすというのは無残な結果だが、それが山の恐ろしいところである。エヴェレストでは実際、高名な登山家が何名も命を落としている。しかし、マロリーが転落死したのは、果たしてエベレスト頂上に登攀を果たした後のことだったろうか。
残念ならが明かな証拠は無い。大きな証拠となるものと期待されていた、マロリーが所持していたはずのカメラは見つからなかった。しかし、ゴーグルがポケットに入っていたこと、そして発見地点が第6キャンプのすぐ近くまで降りた地点だったことから考えると、マロリーは日没後に下山していたことになり、下山前に、条件によってはかなりの高度まで到達していた可能性がある。頂上に着いたら置いてくると語った妻と娘の写真が、遺体のポケットから見つからなかったことは、ひょっとして彼が登頂に成功して、その写真を頂上に置いてきたことを暗示しているのだろうか。
いずれにせよ、彼らが登頂に成功したという確証はない。依然としてそれは残された謎のままである。それにしても、現代なら、お金さえ払えばエヴェレストの頂上近くまで連れて行く商業登山隊もあるとはいえ、75年前の彼らは、ロクな防寒具もなく、恐ろしく重い酸素ボンベを背負って、極寒と薄い大気の中をあそこまで登っているのである。恐るべき不屈の精神と体力には感嘆するしかない。当時の写真を見ると、山でマロリーの着ているものは、普通のシャツに背広なんである。さすが75年前のイギリス人という気がするが、冬のシカゴさえ、あの格好では歩けないと思うがなあ。 マロリーの遺体は、捜索遠征隊によって埋葬され、今でもエベレストの標高8160メートルの地点に眠っている。 |