本日午後は、上野に出て、国立博物館で「唐招提寺展」。国宝の盧舎那仏坐像と四天王像などが薄暗く広いホールに配置されてライトアップされていると、なんだか外国の美術館で日本コーナーを見ているような。お寺ではこんな近くからきちんとした照明で見れる機会が意外にない。 関西育ちの身としては、唐招提寺は何度も行っているはずなのだがあんまりご本尊に見覚えがないのが不思議。今から1200年以上前の完成当時は、金箔が全身に貼られ、ピカピカであったはずだが、今ではずいぶん剥げて年代がついている。 寺の伽藍や鐘楼は、奈良、飛鳥時代の完成時には外見は鮮やかな朱色、堂内には極彩色の彩色がされていたはず。中国、チベット、ミャンマー、タイなどに現存する仏教寺院や仏像は今でも補修がされて金ピカ、極彩色のままである。日本に渡来した仏教寺院は、いつからこの金ピカ補修をやめ、年月によって劣化した外見をそのままに朽ちさせることが是とされたのか。そこにはどんな美意識が働いていたのか。あれこれ不思議に感じながら唐招提寺大修理の展示などをゆっくり巡る。そういえば、朝鮮半島の寺院などはどうなっているのだろうか。 もうひとつの目玉、鑑真和上像だが、そこに辿りつく前に、この像を入れた厨子が納まる御影堂の各間を飾る東山魁夷の襖絵が延々と展示される。芸術には門外漢であるからしてあんまり偉そうな事を言う資格はないのだが、東山魁夷については、文化勲章受賞日本画の巨匠とは言え、何を見てもなぜか一度も胸に響いて来たことがない。 まあ、群青色も鮮やかなこの襖絵に関しては、特に年代を経た寺や鑑真和上像との違和感がどうしても感じられる。極彩色ではなく朽ちたような像のほうが日本的感覚では有難く感じられるのは何故か。考えはまたそこに戻って行く。魁夷の絵は昭和55年製作であるから、そう、あと100年もしたら落ちつくのかもしれない。 |