会社から持ってかえった査定の資料を作成しなければならないのだが、なんだかやる気無し。まあ、明日会社でやるか。って、本当に大丈夫だろうか。夕方ぶらりと駅前の本屋へ向かい、「辺境・近境」(村上春樹)、「絶対音感」(最相葉月)「ザ・ボディガード」(リチャード・オコーナー/石川順=訳)3冊購入。最初の2冊はずいぶんと平積みで並んでるから、結構売れてるらしい。
ところで、「絶対音感」(absolute pitch)と言うのは、音の周波数に対して絶対的な感覚を持っていて、つまり相対的なメロディではなく、聞いた音名、すなわち周波数をきっちりと当てる事のできる感覚の事だ。これは、たとえ音楽家であっても、持ってる人と持ってない人がいるらしい。昔、ドップラー効果を測定によって証明する時に、走り去る列車の汽笛の音を絶対音感を持つ人間に聞かせて周波数を測定したなんて聞いた事がある。
この「絶対音感」と言う言葉を聞くと、いつも大学の教養課程で取った音楽概論の授業を想い出す。いやいや、授業は出なかったから、期末の試験の話。この授業は、出席は取らずに、期末の試験も、音楽を流して感想を書けば全員合格の楽勝単位と言う伝説があって、みんなよろこんで履修して、もちろん出席なんてしなかった。ところが、期末の試験に出てゆくと、ちょっと様子が違う。
音楽を流すどころか、教授はとうとうと、日本の音楽教育がいかに無駄で役に立ってないかを演説する。いわく、
「小学校の時から音楽の授業があっても、それは何の役にもたっていない」
「君たちは、みんな聞かれれば、音楽は大好きですなんて言うが、君たちの内、何人が楽譜を読めるのか、あるいは書けるのか。」
「楽譜も読めなくて、ウォークマンだけ聞いて音楽が大好きですなんて言ってもらっては困る。」
「君たちはみんな文盲だ。文盲なのに文学が大好きですと言ってるようなもんなんだ、それは」
なかなか激烈な演説だったが、後で聞くと定年退官前の最後の授業だったんですな。確かに学校で音楽を教えていれば、世に音楽がこんなに流れているのに、音楽教育そのもののあまりの不毛に、切歯扼腕していたであろう事は想像できる。
で、30分ほどの演説の後で、くばられた試験用紙を見ると、音楽を聞いて感想を書くどころか、五線譜ばかり。譜面の最初の数フレーズを見て、曲名を当てる。ピアノで引いた和音を採譜する。メロディを採譜する。答案用紙を見たとたん放棄して出てゆく奴が多かったなあ。私はどうも単位が危なかったので泣く泣く残ってたけどね。
で、まあ、答案用紙の最初のところに、「絶対音感」の有無を書く欄があった。大多数の普通の人間には絶対音が無いから、聴音の場合はすべてハ長調に換算(って言うのか)していいよと言う親切ですな。しかし、どこにもまわりの状況を考えずに、好き勝手に発言する奴はいるもので、答案用紙が配られるなり、まだひとしきり日本の音楽教育の不毛に悲憤憤慨している教授を前にして、手を挙げて、実に間抜けな質問をした奴がいたね。
学生「先生、絶対音ってなんですか?」
教授「そんな事も分からん奴は、「無し」のところに丸をしときゃよろしい〜!」
で、肝心の私の試験結果のほうは、必死にしがみついたかいあってか、「良」をもらったような記憶があるなあ。あるいは「可」だったか。絶対音は勿論無いし、譜面も読めないけど、ギターのコードとチューニングを思い出せば、ピアノで鳴らされる基本的な和音とかは採譜できたし、メロディーもなんとか取れたもんなあ。ま、全部ハ長調に換算しての話だけど。
しかし、まあ、学問として音楽を研究している人にとっては、譜面も読めない輩は、「文盲」って事になるのかもしれないが、譜面が読めなくても勿論、十分に音楽を楽しむ事は可能だよなあ。普通に楽しむ分には。
第一、パプア・ニューギニアだろうが、アフリカのコイサン族だろうが、世界のどこの未開種族にも、譜面は無くても音楽や楽器はあって、それぞれに楽しんでるもの。だいたい西欧の12音階ってのも、西洋音楽の発展と共に世界標準になったものの、すべての民族音楽が、あの五線譜で表せるわけじゃないよなあ。三味線なんかも、チューニングは12音階じゃないんじゃないだろうか。しかし、寺内タケシはギターで三味線引いてたよなあ。じゃあ同じか。<なんか、だんだん根拠薄弱になってきたぞ。
まあ、要するに、音楽と言うのは、おそらく文学よりも、もっと歴史の古い、人類の根源的な楽しみなんだろう。と言う事を言いたかった訳だ、私は。ははは。