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1998/07/30 懐かしのオリンピックを語る。

昨日は早寝したせいか、また5時過ぎに目が覚める。まあ、そんなに早起きしても仕方ないので、また2度寝。会社では朝から数字の取りまとめでバタバタ。また、こういう時に限って、訳の分からん問い合わせとか、余計な電話がかかってくるんだよなあ。

部長は今日からお休み。今週末からの4連休に合わせて早めの夏休みらしい。しかし、日本は実に連休が多い。これだけは帰国してよかった点だ。<たったそれだけかい。しかし、引越しのほうも色々と片づける事が山積みだから、そっちを片づけないとなあ。


沢木耕太郎「オリンピア」読了。いまだTVの中継もなかった1936年に行われたベルリン・オリンピックは、ヒトラーによる国威発揚のプロパガンダとの悪評はあるものの、それまでのどの大会よりも大規模に行われ、日本も陸上、水泳を中心に、かなりの選手団を送っている。

このオリンピックの実態を、まだ生存している参加者らにインタビューをしながら、綴ったルポルタージュだが、まだ貧しく、余裕のなかった日本のスポーツの黎明期のエピソードにあふれて、大変面白い。

着物を質に入れるほど貧乏しながら、食うものも食わずに、ただただ、倒れる寸前まで走り続ける練習に耐えて、ベルリンでは、並み居る大男に混じって1万メートル4位に入賞し、ドイツ人を驚嘆させた村社(むらこそ)。

家庭環境や、両親の死去で、何度も水泳を諦めかけながらも、周囲の支えで進学し、「負けたら日本に帰ってくるな」などという心無い罵倒の手紙までもらいながら、大変なプレッシャーの中を、ついに金メダルを取った水泳の前畑。

朝鮮人として生まれ、ただ走りたい為に日本に来て、シューズを買う金が無い為、ゴムを張ったマラソン足袋で走り続け、アジア人初のマラソン金メダルを獲得しながらも、祖国、朝鮮の旗を上げる事は許されず、無念の思いで君が代を聞いた、孫基禎。

スポーツの世界は、いつでもドラマに満ちているが、日本スポーツの胎動期に、何の見返りも期待せず、ただ、走りたいから、泳ぎたいから困窮に耐え、自らの限界に挑みつづけた彼らの姿は、今よりももっとドラマチックだ。この本はベルリンが第一弾で、シリーズとなって続くらしい。


で、オリンピックと言えば、どのオリンピックから記憶にあるか、と言うのは、年代を知るには恰好のネタな訳だが、私の場合、記憶に残ってる最初のオリンピックは、メキシコ大会だろうか。重量挙げの三宅兄弟なんていたなあ。(もっとも前の東京大会にも出てたそうだが)

マラソンの優勝は、確かエチオピアの、マモ・ウォルデじゃなかったか。アトランタ五輪の時に、アメリカでマラソンの中継を見ていた時に聞いた話では、かっての英雄ウォルデも、今では、政治犯として母国エチオピアで投獄されているらしい。エチオピアも暗黒の国だなあ。そうそう、マラソンでは君原も頑張った。サッカーは銀メダルだったし。なんか、昔の話をしてたら、止まらないぞ。オヤヂになった証拠ですな。わははは。

そういえば、陸上の100メートル走に優勝しながら、母国の黒人差別に抗議して、アメリカ国歌が流れるなか、表彰台で、黒い手袋をはめた拳を突き上げて、うつむいていた黒人選手は、なんて名前だったか。当時は何の事か分からなかったが、今になって考えると、お隣のメキシコでの大会の出来事だから、アメリカにあたえた衝撃は凄まじかっただろう。もっとも、今では、カール・ルイスの登場以来、アメリカの陸上競技もプロ化が進んで、大勢の黒人選手が大金を稼いでスターになっている。結構、時代も変ったと言えるだろうか。