台風が接近しているらしくて結構風が強い。しかし、雨は降ってないので夕刻からちょっと外出。駅前の本屋をブラブラ。新潮文庫で、小林秀雄の「モオツァルト・無常ということ」なんて懐かしいのを見つけたので購入。最初に読んだのは高校生の頃だったが、本はとっくの昔にどこかに行ってしまったな。
しかし、いま読み返してみると、その独特の美麗なレトリックには相変わらず感心するものの、小林秀雄は結局のところ何事をも語っていない気がする。そこにあるのは、西行や、モーツァルト、鉄斎といった、歴史の稀代の精神に対しての小林独特の感嘆、シニカルな嘆息のみだ。こういうところが、青山二郎などに毎夜毎夜飲んで「才能が無い」と「揉まれた」原因なのだろうけど。とまあ、えらくエラそうなことを書いてしまったな。はは。
カバンの中から先週の週刊文春が出てきた。酔っ払って帰る時に買ってそのまま忘れてたらしい。この連載に、高島俊男という人の「お言葉ですが」という日本語に関するエッセイがあり、時折、言葉の使い方の「歴史的正しさ」にあまりにも膠着した堅苦しさに辟易する時があるものの、おおむね面白い。
で、今回の話は、宮澤賢治の有名な『雨ニモマケズ』の詩にまつわるお話なのだが、「一日玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」という部分が、昭和22年の新制中学教科書では、実態に合わぬとして、「玄米三合」に改ざんされていたなんて話が興味深い。ま、文部省の教科書担当のコッパ役人はこういう余計なことしかしないわけである。
で、前置きが長くなったが、驚いたのは、「玄米四合」の読み方だ。高島氏によると、ここは、どうしても「ゲンマイシゴー」と読まなくてはいけないのだという。いや〜、ずっと「ゲンマイヨンゴー」だと思ってたなあ。学校の国語の時間でも、「シゴー」なんて読まなかった気がするけど。
戦国大名の石高などでも、「450石」というのは、「シヒャクゴジュー」と読むべきなのだという。いやあ、これも知らなかった。というより、時代劇なんかでも、そういう読み方してるのを聞いたことない気がするけどなあ。
もっとも、なんでそう読まなければいけないかというのは、特に根拠が示されてない。昔からそういう風に読むのが習慣だということなのだろうか。同じように例にあげられている、「四十九日」や、「四十七士」は、確かに「四」を「シ」と読むのが慣例なのは納得できる。しかし、「ゲンマイシゴー」が正しい、ねえ。 う〜む。ひょっとしてそう読むのは生粋の関東者だけなんじゃないの。←どうしてもまだ納得してない模様。 |