今日は阪神大震災の発生から丸3年にあたるらしい。昨年のこの日も(私はまだ日記は書いてませんでしたが、日記猿人には毎日アクセスしてましたね。)沢山の日記がこの話題に触れたと記憶している。私は神戸出身で、両親もまだ神戸に住んでいる。昨年5月に始めたこの日記でも、関連の話題については、あちこちで触れたが、個人的な記録として一応ここで振返っておこう。
震災が起こったのは、私はまだアメリカ西海岸のサニーベールに住んでいた頃。うちの両親は、神戸の実家で地震に会った。区単位でゆくと実家のある東灘区が一番死傷者が多かったらしいが、幸い、実家はなんとか持ちこたえて、今でも建っている。
向かいの家はずっと新しかったのだが、被害がひどくて、使用に耐えず、結局壊してしまった。建っていた地盤の微妙な違いなのだろうか。ただし同じ町内では亡くなった人はいないようだから、不幸中の幸いだった。
私は、シカゴの上司からの電話で地震の発生を知った。アメリカ時間で日曜の午後。CNNをつけるとまず目に飛び込んできたのが、阪神高速道路が延々と崩壊している画像。見慣れた風景があまりにも異様に変貌している事に大変なショックを受けた。
ついで映ったのが、今にして思えば長田付近の大火災の様子だが、CNNにしても自前の画像ではなく、日本のニュースから借りてきただけで、どこが燃えているのかなんて説明は全然無い。日本語の音声をそのまま流してくれればこっちは助かるのだが、アメリカの放送だからカットされている。実家のある場所は阪急御影より山側だから、地形から見て違う事は分かったが。
そのまま電話に飛びついて実家に電話をかけたが、通話中のトーンが延々と流れる。何度もトライするうちに、今度はつながらなくなり、NTT側のアナウンスで、「この地域には電話がかかりにくくなっています」とのメッセージが流れるようになる。
更に掛け続けていると、今度は、AT&Tの英語のアナウンスで、「この国への通話は現在混雑中です」とブロックされてしまうようになった。在米の日本人が、阪神間に住む、親戚・知人にどんどん電話を掛けはじめたからに違いない。
震災直後は、オーストラリアにいた妹からの電話は繋がったらしい。結局、夜中過ぎに、妹から電話があって、とりあえず地震直後には大丈夫だったと連絡があるまで、つながらない国際電話を掛け続けていた。あれほど遠い異国に住んでいる事のもどかしさを感じた事はない。
幸い両親や市内在住の親戚には怪我はなかった。亡くなられた何千人もの方の事を思うと、これは実に幸運な事だった。実家のある場所は、電気はすぐに復旧したものの、水道とガスはなかなか復旧せず、給水車頼りの生活。水洗の水を車で住吉川に汲みにいって、ついでに川で洗濯をしたなんて話を聞くと、まるで日本昔話のようだが、笑い事ではなく、実に大変な生活だった事が分かる。
車で裏六甲のゴルフ場まで行って、震災被害者に解放していた風呂にタダで入った事。給水に並ぶと戦争直後を思い出した事。地震後最初の月末に手形の決済やらが気になって取引銀行に行ってみたらその支店も潰れていて、なんだか笑いが込み上げてきた事。震災の後の生活のあれこれについては、両親とも今では笑い話として話せるが、地震が起こった瞬間の事については、親父はただ、「あれは一生忘れられん」としか、今でも語らない。実際にその場で経験した者でないと決して分からないのだと言う。