「ブレードランナー」は、オリジナル封切時に劇場で見た。そもそもは、予告編を劇場で見た時に、バンゲリスの音楽が流れる中、「2019年、ロスアンジェルス」と表示が出て、冒頭のあの終末的ロスの風景と火を吹く煙突、そしてそこを飛ぶスピナーという映像にたいへんに衝撃を受けたもんだったなあ。
ビデオディスクも発売直後に買った。これは、LDではなくて、今はすでに消え去ったもうひとつのビデオディスク形式だ。なんだったっけ、あれは。なんでそんなカスを買ったのかというと、当時、「ブレードランナー」のビデオディスクはLDでは発売されてなかったのである。LDに対抗するために、版権を買い占めたんですな。実にセコイ商売だ。もっとも、そのカスなディスクが敗退した後でちゃんとLDが出たし、DVDも今では発売されている。
このディスクは、プレイヤーごとアメリカに行く前に処分してしまったのだが、今にして残念なのは、あのディスクは、「ディレクターズ・カット・最終版」が出る前のオリジナルに近い版だったということ。
「最終版」が大きく変わったのは、ハリソン・フォードのナレーションがカットされ、エンディングも変更されている点だが、毀誉褒貶は多いものの、個人的には、ハリソン・フォードのナレーションは結構好きだった。劇場で見た人は、ナレーション入りを見てから「最終版」を見るわけだが、説明的すぎるとはいえ、最初に見るにはあのナレーションがあったほうが分かりやすい。 ちょっと記憶があいまいだが、デッカードがレオンのホテルから回収した写真の束を見ながら、確かおおむねこういう風なナレーションが流れたはずだ。 「レプリカントはみんなとても写真が好きだ。彼らに本来無いはずの過去の記憶を、まるで思い起こさせてくれるような気がするからだろうか」説明的にすぎる余分なモノローグといえばその通り。しかし、やはりそれは何回も同じ映画を見たから分かることだ。このナレーションがなければ、バティがレオンに、「あの写真を持ってきたか」と聞くシーンや、レイチェルがデッカードに、自分がレプリカントでない証拠として、「私の子供のころの写真よ」と懸命に写真を手渡そうとする哀れさが、イマイチ腑に落ちないのも事実なんだなあ。 アメリカで購入したビデオも、「最終版」だから、ナレーションはカットされている。色々とバージョンの違うLDやビデオを収集してるファンもいるそうだが、そこまでは必要ないとしても、なんとなく、昔の劇場公開版オリジナルに近いのを、もういちど見たくなってきた。 |
リドリー・スコット監督が、英国のTVドキュメンタリーの中で、自らの作品、「ブレードランナー」の主役デッカードはレプリカントだった、と語ったらしい。
「ブレードランナー」は、イギリス人、リドリー・スコットが監督、ハリソン・フォード主演で1982年に封切りされたSF映画だが、あっけにとられるような美しいSFXが散りばめられていたものの、アンチ・ユートピア的な暗さと、取ってつけたような最後のハッピーエンドが嫌われたか、劇場公開時には大コケだった。
しかし、その後ビデオやLDでジワジワと人気が出て、今では、「2001年」と並ぶSFの古典的カルト・ムービーとしての地位を確立。94年には、結末を手直しし、ハリソン・フォードのナレーションも取り去った「ディレクターズ・カット・最終版」が、LD、ビデオでもリリースされている。 昨日は日記をアップしてから、昔買った「メイキング・オブ・ブレードランナー」を再読。
劇場公開版では、はっきりとしなかったが、ディレクターズ・カット版では、「ハリソン・フォード扮するブレードランナー、デッカードも、実はレプリカントであった」というイメージを強調してある。
デッカードが部屋で考え込むところで現れる一角獣のイメージと、ガフが最後にデッカードのアパートメントの前に置いて立ち去った折り紙。一瞬赤く光るデッカードの瞳。
「メイキング・オブ・ブレイドランナー」では、関係者の話を取材、総合して、リドリー・スコットは、撮影途中から、デッカードがレプリカントであったというアイデアに傾斜してゆき、ディレクターズ・カットはその線に沿って再編集されたと結論づけているが、今回の発表で、リドリー・スコット監督自身から、最終の編集の意図が明らかにされたわけである。
もっとも、これは当然ともいえる。映画の原作となったフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢をみるか」の中で繰り返されているのは、誰もが実はアンドロイドではないかという疑惑。そして、小説の主人公自身も、ひょっとして偽造の記憶を植付けられたアンドロイドではないかという、白日夢のようなすべての存在への根本的な懐疑である。それを考えるなら、デッカードがレプリカントだったという設定はごく自然であった。
劇場版のラストでは、街から逃亡して行くデッカードとレイチェルが写り、ハリソン・フォードのナレーションで、「レイチェルには寿命はセットされてなかった」という説明が入り、あっけなくハッピーエンドに終わる。しかし、ディレクターズ・カットでは、そのナレーションがカットされ、デッカードとレイチェルが追手を逃れるために部屋を出て、エレベーターに乗り込んだところで画面が暗転して終わり。
もしも、デッカードがレプリカントであることを観客が知ってるなら、この直前のシーン、デッカードが最後にバディを屠った後で会ったガフのセリフが思い起されるはずだ。
"It's too bad she won't live. But, then again who does"(<レイチェルが>長くは生きないとは気の毒なこった。ま、しかし誰も長生きはせんのだがな) そう、デッカードがレプリカントなら、彼もあらかじめ設定された短い寿命があって、長くは生きない。エンドロールが暗示するのは、デッカードとレイチェルの短い死の道行き。救いようのないとても暗いラストであるが、映画全体のトーンにマッチした納得のゆく暗さである。 |