車で近所のシネマ・コンプレックスへ。今更ながら、「ハンニバル」を見る。 トマス・ハリスは、「羊たちの沈黙」の映画が大ヒットしてアカデミー賞を貰ってから、続編の「ハンニバル」を書いた。だから、原作の小説そのものに、「羊たちの沈黙」のキャストや演出を意識しているところが随所に見られる。映画のほうの監督としては、そこまで原作に書かれては、逆にやり辛い面もあるだろう。 前作のジョナサン・デミが監督を引きうけなかったのも、あるいはそういう面があったか。「羊たち」は、ハリスの原作のよい部分を忠実に残しながら、映画ならではの映像の魅力も加えた、エンターテインメントとしてはたいへんに凝った素晴らしいできばえだった。 で、今回の「ハンニバル」であるが、クラリス役のジョディ・フォスターは出てないし、題名からしても、アンソニー・ホプキンス扮するハンニバル・レクター博士が一枚看板で頑張らねばいけないわけだが、ホプキンスに、前作のほどのオーラがイマイチ感じられない。 東欧の貴族の出であるという設定にもかかわらず、どうもそこらのオッサンのように見える場面が多々あるのは、ホプキンスにも老いが忍び寄っているということかもしれない。 リドリー・スコット監督も、手馴れた感じで、ほぼ原作に忠実に撮っているのだが、それほど力が入ったわけでもないような。「グラディエーター」でアカデミー賞取ったし、ま、今回は無難に納めとくかとでも思ったか。 クラリス役のジュリアン・ムーアは、理知的で強靭、しかもエレガントという必要条件は満たしており魅力的ではあるが、レクター博士の相手として十分かと言われるとちょっとなあ。ケイト・ブランシェットも候補だったらしいが、線が細いなりに、そっちのほうが見てみたかった気がする。 レクター博士への復讐に狂う大富豪、メイソン・ヴァージャーは、特殊メイクアップで作り上げた風貌が凄い。しかし、最初からあの顔が映りっぱなしなので、最初の衝撃は次第に薄れてくる。マッチョの妹が登場しなかったのは残念。愛憎と狂気が交錯するあの妹像は、ヴァージャーの邪悪な獣性を浮き彫りにする、必須の登場人物だったのだが。原作読んでない人には、あのヴァージャーの狂気がどこまで伝わったか。 楽しみにしてた殺人ブタはちゃんと出てきた。まあまあよかった。というか、なんでそんなモン楽しみにしてたのかと問われても困るが。ははは。 まあ、しかし、飽きさせないし見る価値は十分ある映画であった。最後に、ラストシーンについて触れなければならないのだが、もう映画を見てて、ネタバレを気にしない人は、この下の文字を反転させて読むよろし。 レクター博士とクラリスの関係について、原作と映画と、どっちのラストを取るかと言われれば、個人的には、やはり原作のほうだ。しかし、原作通りに映画にすると、衝撃的すぎておそらく興行としてはかなり厳しい。そういう面では納得はできるというか。 もっとも、頭蓋骨開けて脳を料理するというシークェンスを、その通り映像化したのには驚いた。原作を読んでない人にとっては、あのシーンだけで十分に衝撃的だ。 ただ、ちょっと納得行かないのは、お互いの手が手錠に繋がれた究極の場面で、冷徹で超合理的な殺人鬼にして高貴なる怪物、ハンニバル・レクター博士が、ああいう非合理で感情に眼がくらんだ選択をするだろうかという点だ。だいいちピアノが弾けなくなってしまうじゃないの。ははは。 ま、映画とクラリス・スターリングの評判を守って、主役の怪物ハンニバル・レクター博士を小さくしてしまったような結末であった。賛否両論あるだろう。前作のラストは、乾いたセンチメンタリズムの香る、印象的なラストだったよなあ。 |