昨日の夜は「A.I.」を観に行った。公開初日ということで混雑してたが、昼間に指定席を購入してたのでのんびり。しかし、この劇場はスクリーンが暗い。映写設備がオソマツな気がする。有楽町マリオンという好立地にアグラかいて、設備の更新をちゃんとしてないんじゃないかねえ。 映画のほうは、いきなりウイリアム・ハートが登場して、懐かしい。アカデミー賞取ってから、あんまり見ないよなあ。ハーレイ・オスメント少年は、子供の割りに計算されつくした演技を見せるが、そもそも人工的な印象があるので、アンドロイド役をやるにはうってつけだ。 2時間半というのは長い上映時間だが、一応、最後まで飽きさせない。もっとも脚本には、ずいぶん安直なところもあって、やはり故スタンリー・キューブリックが監督してたら、もっと違ってたろうなあ、と思わざるを得ない。まあ、キューブリックがアレコレと10年近く構想を温めていた原作を、スピルバーグがアッという間に映像化したのであるから、こんなものかもしれない。 CGのデキは素晴らしい。キューブリックは、氷河に覆われたニューヨークの撮影をどうするか解決がつかないのでこの映画の撮影を延期し、「アイズ・ワイド・シャット」を製作したと言われているが、これも見事に映像化している。スピルバーグの演出も、手慣れているが見るべきものがある。プールでの事故のシークェンスなんかは、知性と愛を持ってさえ、人間にはなれず使い捨てにされるアンドロイドの悲哀を描いて秀逸だ。 原作からみて、アメリカでのレイティングが、PG13(Parents Strongly Cautioned. Some material may be inappropriate for children under 13)になったのを不思議に思っていたが、女性にセックスで奉仕する、ジゴロ・ロボットが出てたからなんだなあ。 しかし、PG13になった割には、このセクサロイドの役割は平板だ。脚本がよくできていれば、母親の無償の愛や、ロボットの息子にインプリントされた、母親を求める人工的な愛とはまったく違う、男女の性愛を代表する役として、作品に深みを与える重要な存在になったのに。スピルバーグはこの方面を描くのはカラッキシなので、せいぜいオズの魔法使いのブリキ男を連想させる案内役にとどまってしまった。 ちょっと納得が行かなかったのは、やはりラストだろうか。そもそもキューブリックは、SF版のピノキオを人工知能とからめて描こうと構想してたらしい。映画を見てだんだんと心配になってくるのはラストがどうなるかということだ。ピノキオなら妖精に人間に変えてもらえばそれでハッピーエンド。しかし、未来の話でそうもゆくまい。 デヴィッドが絶望して自己破壊する悲劇的なラストも検討の対象にあったと思うが、アメリカの観客には受け入れられまい。他人事ながら心配してたら、海底に沈んだコニーアイランドの場面の後、唐突なナレーションが入る。案の定、最後は2000年後にエイリアンがやってきて、となるわけだ。う〜む、なんか安直な気が。 エンディングも映画はもたつく。母親を一日だけDNAから再構成して、というのはスピルバーグが付け加えたと思うが、あんまり効果を上げていない。そもそも何の解決にもなっていないから。あれなら、「海に沈んだコニーアイランドのブルー・フェアリーの像の前で、デヴィッドは人間になる夢を見ながら幸せに機能停止したのでした」で終わっても、まったく同じことであった。 全編を通じて、「ロボットに人間を愛させるのはいいとして、人間はロボットに愛を与えてやれるのか。これは倫理の問題だ。」という、映画冒頭の興味深い問いかけが、十分に消化されていたとはいえない。というか、スピルバーグは、やはりサスペンスを映像で描く職人であって、愛なんて描くのは、得意でもなんでもないというのが結論かもしれない。 色々書いたが、全編を通じて、映像は素晴らしいし、ストーリーに少々難はあっても飽きさせない。キューブリック・ファンなら物足りないところもあろうが、スピルバーグが好きなら十分楽しめる。「いったい誰がこんなクズを作ったのか」と思わせる大部分の日本映画に比べたら、何十倍も素晴らしい。せっかくだから、子供にも安心して見せられる映画に仕上げたほうがよかった気がすることはするが、まあ観る価値はあった。そんな映画であった。 |