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2002/02/11  「地獄の黙示録・完全版」

午後から銀座に出て、「地獄の黙示録・完全版」を鑑賞。映画館は結構混んでいる。

完全版、あるいは、ディレクターズ・カットなるものは、もともと成功した映画でしか作られない。しかし、完全版のほうがよかったタメシは、まず無い。監督にとってどうしても復活させたいシーンがあるのは理解できるが、結果として冗長となり、カットしたオリジナルのほうがよかったという場合がほとんど。

しかし、「地獄の黙示録・完全版」は例外で、追加された主要なシークエンスは、ストーリーの流れをはっきりとさせ、映画の背景に深みを与えることに成功している。オリジナルよりも進歩した気がする「完全版」というのは、なかなか珍しい。

映画自体は、実際のベトナムを描いたというよりも、まるで夢の中のような物語。ディズニーランドへの言及が映画の中でもあるが、これは一種、コッポラの「ジャングル・クルーズ」ベトナム版と言ってもよい。

軍規にそむき、カンボジア奥地で神として君臨しているカーツ大佐を殺す。その秘密任務を遂行するため、偵察艇に乗って川をさかのぼるウィラード大尉。彼らが、川を上るにつれ遭遇するエピソードは、どれもどこか現実離れしており、幻想的でもある。

この幻想的な旅に深みを与えたのが、新しく追加された「フレンチ・プランテーション」の場面。もともとメイキング・ビデオ等でその存在は明らかにされていた幻のシーンである。

霧の中から突然現れるフランス風の旧家。旧宗主国時代から農園を経営し、ベトナムで豪奢に暮らしてきたフランス人集団。「お前達はいったい何のために戦争をしようとしてるのか」と、ウィラードを問い詰めるフランス人当主との議論と、それに続く幻想的な一夜は、過去のベトナムを支配し、敗れ去ったフランスの亡霊が、同じ愚を繰り返そうとしているアメリカを、嘲笑しているかのようだ。そう、虚実を交えた映画の文法としては、この場面でのフランス人家族達は、ある意味、確かに過去から蘇った亡霊なのである。

慰問に来たプレイメイト達との後日談など、途中の場面でのストーリーはふくらみを増したが、エピローグそのものには大きな変更なし。マーロン・ブランドの語りが追加されている程度。

エピローグについては、先月号の文芸春秋で立花隆が、興味深い分析を書いている。しかし、意味深なラストではあるが、深読みしても意味ないような気がする。

この映画の撮影は、予算を天文学的に超過した。コッポラ監督は、自分の自宅まで抵当にいれて資金を捻出し、破産寸前。大きくなりすぎたプロジェクトを仕切だけでアップアップ。どのような結末になるか、自分でも迷いつつ、後で編集しようと、とりあえず使えそうなモノはなんでもキャメラに収め続けたのが実態だ。

しかも、撮影が終わってからは、テスト試写を繰り返し、その反応によって、最終シーンを次から次と変えていったのである。戦争の愚かさや、狂気が描かれているのは当初の目論見通りであるが、ことさら深読みできるような結末が、最初から用意されていたわけではないだろう。

もっとも、カーツ大佐の屋敷のシーンで、机には、フレイザーの「金枝篇(GOLDEN BOUGH)」が置かれており、「聖杯伝説」や「王殺し」そして「王権の交代」を当初からコッポラがモチーフとして念頭に置いていたことは事実だ。

「カーツ=王殺し」とシンクロする、祭りでの水牛の屠殺も、背筋が寒くなるほど実に効果的。しかし、これすらも、当初からの脚本にあったわけではない。何百時間分も回したフィルムの混沌の中から、コッポラが、自らのインスピレーションを信じて掴み取った結末であった。

ま、それにしても、カンボジアの密林に、なぜかアマゾンのインディオみたいな原住民がいて、アメリカ人が崇拝されて王様として君臨するというストーリーは、どうにもアメリカ人の世界に対する無知というか、能天気な部分を露呈して、アジア人の一員としては、ちょっと感情移入しづらいところだ。しかし、映画史に残る大作、傑作であることに間違いはない。