有楽町で「ボウリング・フォー・コロンバイン」を見た。1999年アメリカ。コロラド州デンバー郊外のコロンバイン高校で2名の高校生が自動小銃を乱射し、13名を射殺した上で自らも自殺した。笑いながら同級生に銃弾をばらまいた彼らは、事件を起こす当日の早朝6時からボウリングに興じていたのだという。アメリカ郊外の町のボウリング場というのは、なんだか妙に心痛むような寂寞感にあふれた場所だが、不思議に心に引っかかるエピソード。 この高校生達がファンだったのが、暴力的でアナーキーな歌詞を歌うロッカー、マリリン・マンソン。猟奇事件が起こると必ず暴力ビデオやゲームの影響などがとりざたされるが、この事件ではマンソンの与えた影響がヤリ玉に上がり、彼の公演はいくつかの州で中止に追い込まれる。「だったらボウリングも禁止しろよ」という反骨のジャーナリスト、マイケル・ムーアの主張が、この映画の題名にはこめられている。 このドキュメンタリーには、あまりにも多くの事実が詰めこまれているのだが、「なぜアメリカでだけ毎年銃による殺人がこれほど多いのか」という疑問の探索が重たいテーマである。アメリカの銃による死者は年間1万人以上。ドイツは400名弱、フランスは300名弱。イギリス、日本は100人以下。あまりにも突出しているのだ。アポなしで突撃取材を繰り返しながら、マイケル・ムーアは問い続ける。「アメリカ人は銃による人殺しが好きなのか?」コロンバイン事件の被害者の家族に、マリリン・マンソンに、そしてチャールトン・ヘストンに。 誰でも思いつく回答は「銃の規制が甘い」こと。確かに誰でも銃と弾丸を買える国。しかし、カナダでの銃の普及率はアメリカ同様。なのに銃による死者はアメリカの何十分の1。家族制度の崩壊や教育や銃規制は究極の回答にはならない。何がこの違いを生むのか。 NRA(全米ライフル協会)の会長、チャールトン・ヘストンは、銃規制反対派の旗手として常にリベラル派からの批判にさらされている。ヘストンへのインタビューは、この映画のクライマックスでもある。しかしヘストンは、「銃を持つのは合衆国憲法修正第2条に決められた権利」と繰り返すだけで、ムーアの問いかけに満足に答えることはできない。「ミスター・ヘストン、この写真を見てくれ」とムーアが差し出すのは、6歳のクラスメイトに射殺された少女の写真。しかしヘストンはそれには目もくれず会見を打ち切り、曲がった背でヨロヨロと立ち去る。過去のアメリカを代表するマッチョ、”モーゼ”の無残なまでの老醜。 しかしチャールトン・ヘストンだけを責めるのは酷かもしれないのだ。彼は単なる使いやすいアイコン、「偶像」に過ぎない。ヘストンをNRAの会長に据え、自在に操っている者が必ず背後にいる。アメリカ人に恐怖と憎悪を植え付け、銃を買わせ、軍備を増強し、敵を作り、戦争へと駆りたてることで巨万の富を得る者達。それはアメリカを陰であやつる巨大な勢力だ。ムーアのキャメラには、実はそこまで映りこんでいる。なんだか恐ろしい話だ。 重たいドキュメンタリーであるが、突進するムーア監督の根底に感じられるあっけらかんとした善意、あるいは人間に対する信頼が一種の救いになっている。カナダでは誰も家の鍵をかけないと聞いて、本当にあちこちの家の玄関を開けて回るムーア。次々に開く玄関に「オッオー」と感心する場面など、なかなかユーモラスで面白い。典型的なアメリカ白人のブクブク太った体形同様、古きよきアメリカの美徳を残している部分というか。 そういえば、チャールトン・ヘストンは、今週NRA会長職からの辞任を発表。アルツハイマーの徴候が出ているのだという。彼らは次に誰を偶像とするのだろうか。 |