昨日の夜は、DVDで「勝手にしやがれ」を見た。“ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)”の誕生を告げたと称される、ジャン・リュック・ゴダール監督の記念碑的作品。しかし公開が1960年とは。もっとも、シャンゼリゼやパリの街並みはそれほど変わったようにも見えない。日本の昔の映画で見る銀座なんてとんでもなく変わっているが、やはり石造りの街は違うな。 主演のジャン・ポール・ベルモンドは、この1作でスターダムにのし上ったのだが、歌舞伎で言う「色悪」の役柄。実に魅力的な悪党を演じている。それをふりまわすアメリカ娘役、ジーン・セバーグも素晴らしい。2人とも若さに光り輝いている。 映画そのものは、同時代に製作された普通の映画へのアンチテーゼとしては、大変に価値があったのだろう。しかし、今見るとやや奇異に感じる。 音声は連続してるのに、画面はブツブツと切れる。時系列が跳んだ場面を無理に繋いだようなジャンピング・カット編集(というらしい)。ベルモンドは、車を運転しながら、(映画の文法上は)誰もいないはずの助手席に向かってキャメラ目線でしゃべる。これでもかというほど露骨に排除された物語性。手持ちキャメラと自然光、そして即興演出。当時としてはすべて破格。常識を超えた撮影と編集、そして演出である。 詩的なセリフと印象的なしぐさ、ファッションと語りだけを、ブツ切れの映像をつないで見せる詩的な映画。ラストは陳腐に思えるが、そもそもストーリーは最初から重視されていない。製作の意図としては陳腐ではないということなのだろう。極限すればこれは一種の「環境ビデオ」だ。スタイルは実に素晴らしい。しかし映画として面白いかというと、40年を経て見直した場合、すでに面白いとは言えないような気がする。当時としては実験的で素晴らしかったのだろうが、今では逆に高校生が作った8mm映画のように感じる。あるいは古色蒼然として見えるというか。 ゴダール監督については神のごとくあがめている映画ファンも多いから、あんまり悪いことを書くのはためらわれるのだが、「ゴダールの「勝手にしやがれ」最高っス!」とケーハクに評価されると、ちょっと待てよという複雑な気がする映画だ。年月を経ても色あせない、と単純に言いきれない映画だと思うのだが。むしろ、この作品がそれからの映画に与えた影響が大き過ぎるので、オリジナルが古く感じるのか。 原案はフランソワ・トリュフォー。しかし、セリフ聞いてても、フランスのセンスというのは、実に日本と違うなあと感嘆する。「海が嫌いなら。山が嫌いなら。都会が嫌いなら。勝手にしやがれ。」これがベルモンドがキャメラ目線でしゃべる独白のセリフなのだが、ここから何かの含意が読み取れるだろうか。翻訳に問題あるような気もするのだが、フランス人はこのセリフ聞いて何か感じるのだろうか。実に不思議だ。 |