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2003/08/05 「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」

しかし暑かった。会社を出たら地下鉄で帰る気が失せてタクシーを止める。「暑いとお客が増えるでしょう」と運転手に問うと、
「数年前までは、暑いから乗ったなんて人も確かにいたんですよ。でも、今はいないなあ。不況ですよ。日中の都心の都営バスの停留所見たことあります? 昔は、バス待ってるのはジイサマ、バアサマだけ。だけど、今はたくさんバスを待ってるんだね、なんだかネクタイした人が」
と。運転席からは、我々が気づかないものが見える。Yes.



日曜日の午後に「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」(The Life of David Gale)を見た。感想を記しておかなければ。

アカデミー主演賞2度受賞のケヴィン・スペーシーと「タイタニック」のケイト・ウィンスレットが主演という割には、日比谷のシャンテ・シネで地味に公開。アメリカの興行成績はよくなかったらしいが、実に見ごたえのある社会派のミステリー・スリラーに仕上がっている。

ハーバードを主席で卒業し、若くしてテキサスの大学に終身教授の職を得た哲学者デヴィッド・ゲイル(ケビン・スペイシー)。学生からの信望も篤く、死刑廃止運動の熱心な活動家であった彼は、しかし、同じ死刑廃止運動にかかわっていた大学の同僚女性のレイプと殺害の容疑で逮捕され、死刑判決を受ける。

処刑を4日後に控えたゲイルは、とある雑誌社に連絡を取り、1日2時間、3日連続のインタビューで自分の人生を最後に語りたいと依頼する。インタビュアーとなった女性記者(ケイト・ウィンスレット)は、刑務所での面会を通じて、これは免罪事件で、ゲイルは罠にかかったのではないかとの印象を抱き始める。

ゲイルは本当に同僚をレイプして殺したのか、あるいはこれは免罪なのか。処刑の日は迫る。そして謎の人物から女性記者の元に届けられる、死亡寸前の被害者を映したビデオの断片。これを撮影したのは誰か。なんのために。そして被害者の死亡時間の前後のビデオにはいったい何が映っていたのか。

鉄格子を挟んでの面談。フラッシュバックして交錯するゲイルの過去と殺人事件の謎。2時間10分をまったく飽きさせないのは、アラン・パーカー監督の演出の力だ。ケイト・ウィンスレットも、「タイタニック」の時よりもずっと魅力的。

映画のストーリーの根幹となっているのは死刑廃止運動。欧州各国ではほとんど廃止された死刑だが、アメリカではまだ各州に残っており、特にこの映画の舞台となったテキサス州は、アメリカの中でも飛びぬけて死刑判決と処刑数が多い。

「終身刑」のない日本で、死刑まで廃止したら、例えば、何人も罪のない少女をレイプして殺した殺人鬼でも、ヘタをすると7年や15年で娑婆に再び出て来る。そんなことが許されていい道理が無い。それだけは、日本の「死刑廃止議員連盟」とかの、能天気な日本の国会議員には言っておきたい。しかし、アメリカの場合は、仮釈放無しの「Life in Prison」という刑があり、重犯の累積刑で懲役120年などという刑罰もあった上での死刑制度であるから、ちょっと事情は違うのであるが。

01年6月11日の日記で、死刑反対派を「ウスラ寒いような狂信」と総括したが、奇しくもこの映画のラストを暗示していたかのようだ。大変に重く、そして暗いラスト。一種の感動を覚える人も、ある種の恐怖を感じる人もいるだろう。題名の「The Life of David Gale」は、デヴィッド・ゲイルの人生と、奪われてゆくゲイルの「生命」というダブル・ミーニングでもある。

回想シーン。事件当日の朝、ゲイルは芝生の庭に寝転がり、呆然と空を見つめる。「何か」を決意した男の途方もない孤独。映画の結末を知ってから、心によみがえってくるシーン。基本的には、この結末を私自身は否定する。しかし、狂信とはいえ、共感できうる何かを伝えたのは、ケビン・スペイシーの素晴らしい演技だ。

映画の面白さとしては、マトリックスやT3なんぞより、ずっとこっちを大劇場で公開すべきだがなあ。