「パッション(The Passion of the Christ)」を観た。キリストの受難に描いた映画。メル・”マッド・マックス”・ギブソン監督は敬虔なクリスチャンとのこと。「The」がつくのとつかないのでは「passion」の意味が違うのだが、日本の配給会社がつける邦題はいつもこの辺がいい加減。カタカナにする時には「ザ」は全部抜くという統一的取り決めでもあるのかな。 原作はもちろん世界で一番出版された本(聖書)。ごく一部の映画的脚色を除いて、映画は福音書に非常に忠実に作られている。 キリストの受難を描いた映画は、今まで幾多もあった。しかし、ここまで徹底してリアリティを追及した映画はなかっただろう。役者のセリフはすべて当時中東で使われていたアラム語とギリシャ語。鞭打ちや磔刑も、これでもかというほと残酷に描かれている。血みどろのイエスは、悪く言うと、ジョージ・ロメロ監督の「DAWN OF THE DEAD」状態。気の弱い人なら正視するに堪えない。アメリカ人のオバちゃんが映画館で心臓マヒ起こしたそうだが、確かになあ。イエスを描いた映画の中ではこれは一種の極北に位置する作品。 映画は有名な「ゲッセマネの祈り」の場面から始まる。聞きなれないアラム語で父なる神に語りかけるイエスの演技には、荘厳で妙な重たい存在感あり。たったひとつ分かったアラム語の単語は、「アドナイ(わが主よ)」。イエスの瞳の色はCGで化工しているのか。 英語圏の人々にもアラム語はチンプンカンプン。全ての場面に英語字幕がついているのだが、日本版では、「監督からの要請により、英文字幕の無い場面には日本語字幕を付しておりません」との妙なお断りが最初に出る。 なんでこんな注釈があるのか不審に思ったが、ピラトが処刑の判決をする場面で疑問氷解。イエスを尋問したローマの総督ピラトは、イエスが死刑になるべき罪人とは思えない。しかし磔刑を要求するユダヤの群集。ピラトは手を洗いながら、「この人の血について私には責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」と群集に警告する。この後の祭司長を始めとするユダヤの群集が叫ぶシーンの英語字幕がそっくり削除されているのだ。したがって日本語訳も無し。 聖書に親しんだ欧米の人々なら字幕が無くともすぐに分かる。日本人でも福音書を読んだことがあれば記憶にあるはず。祭司長を始めとするユダヤの群集は、「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」と叫んだのだ。福音書マタイ伝にあるエピソード。 この章句は、後世「イエス殺しの責任はユダヤ人にある」としてユダヤ排斥の背景となった。今回もおそらくユダヤ関係団体の圧力がかかっただろう。そもそもユダヤ教を信じる人にとっては、イエスは救世主でも何でもない。身に覚えのない汚名を着せられてはかなわないというところか。英文字幕を削除しても前後の関係からセリフは明らか。各国の字幕作成時に勝手に訳をつけられては問題がまた紛糾するので、監督名で前出のような奇妙な要求を各国の配給会社にすることになったのだろう。 イエスを演じる俳優は、優男の2枚目。それが血まみれ状態であるからインパクトは大きい。実際にこれほどひどい受難だったのだと言われればそうだろう。しかしあまりにもやりすぎと言われればその通り。イエスの受難を思い起こすのには、多分、このようなスプラッタ・ホラーは必要なく、福音書か単なる十字架像で十分という気がする。 十字架上での最後の言葉にどの福音書を採用するのかも興味の対象だったが、まず、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか)」と問い、「すべては終った」と述べ、そして、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」とつぶやいて最後となる。全ての福音書の最後の言葉をミックスした十字架上の最後。 そして磔刑の後、岩穴の墓。包まれた亜麻布から遺骸は消え、復活したイエスの手の甲には、向こうが見えるような穴がポッカリと開いている。そう、それもまさしく福音書の記述通り。しかし映画としての固有のメッセージや独特の解釈はここにはない。福音書をグロテスクにしただけと言われればそうかもしれない。そこが、この映画がエモーショナルではあるが、単純に感動しかねるというところでもあるのだが。 ところでイエスが息をひきとった時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、岩が裂ける。しかし、昨日読み返したマタイ福音書にはその後に、(すっかり忘れていたが)もっと怖い一節がある。「また墓が開け、眠っている多くの聖徒達の死体が生き返った」と。この部分は映画にはない。それはそうだろう、そのまま映像化したら怖いよ。2000年近く前のどんなイマジネーションがこのようなフレーズを書かせたのか。まさに「DAWN OF THE DEAD」の世界。そう、ちなみに、ジョージ・ロメロの「DAWN OF THE DEAD」の日本公開時の邦題は、「ゾンビ」である。 |