日曜午後は日比谷まで出て、「ランド・オブ・ザ・デッド」を見た。かなりキャパの小さな劇場。TVCMも見た記憶ないし、配給会社も、大ヒットはあんまり期待してないのかね。 ホラー映画がブームだった頃、しきりに一連のゾンビ物が粗製濫造されたが、そもそも「Living Dead(ゾンビ)」映画は、「NIGHT OF THE LIVING DEAD」、「DAWN OF THE DEAD」、「DAY OF THE DEAD」の「ゾンビ3部作」を製作したジョージ・A・ロメロをもって嚆矢とするのである。昨年、この第2作(日本では「ゾンビ」という邦題で公開)を別の監督がリメイクした「ドーン・オブ・ザ・デッド」が公開され、見た感想を過去日記に書いた。 「ゾンビ3部作」は、night、dawn、dayと時制が変わるにつれ、死者が白昼堂々と世界を歩き回り、人間は追い詰められてゆく。今回の作品は時間軸で言うと、3作のうち、「Dawn of the Dead」の後で「Day of the Dead」の前に位置する。司馬遷の「史記」流に言うと、以前の3部作が、「本記」であれば、これは、ゾンビが地球を支配してゆく歴史の中で、北米のとある都市の崩壊に焦点を当てて描いた「列伝」にあたるだろか。「司馬遷に匹敵するほど大層なもんか!」という批判に対してはそれを真摯に受け止めて、すぐにでもこの見解を引っ込める用意はあるが。はは。 ゾンビの群れからまだ安全な北米の小さな都市。その超高層ビルに住む街の支配者。金持ちだけが住めるそのビルやショッピング・モールでは、明りがまだ煌煌と使え、携帯も通じ、レストランではウェイターが料理をサーブしている。金で雇った傭兵によって、近隣のゾンビだらけの町から物資を略奪してくることによって成り立つ、崩壊直前、かりそめの都会。 都市の支配者、デニス・ホッパーは、なかなか悪くなかったが、記憶に残るほどでもない。商売だからとやってきて、シナリオ読んで「ああ、いつもの奴ね」と簡単に納得し、簡単に演じて去っていった風。せっかく高いギャラ(だと思うのだが)払ってるのだから、もっとアンビバレンツで異常な性格やら、究極の悪人の側面を強調して役を膨らませたらもっと面白かったと思うのだが。脚本の出来かもしれないが、監督のロメロそのものも多分、大物俳優に細かい演出できるほどの力はないんだよなあ。 上映時間は90分。この程度で長さもテンポもちょうどよかった。最近の映画にはムダに長過ぎるのが多いし。気味の悪いゾンビなら、よほどの「ゾンビ・フェチ」以外は90分も見たら十分だ。 「ゾンビ」ならではのグロテスク・シーンも、壁に映る影で表現したり、一瞬のショットにしたり、昔より見せ方は少しばかり洗練されている。もっとも、アメリカの通常波TVでは決して放送できないだろう残虐シーンはあちこちに。 チア・リーダーの格好のままゾンビと化した女性は、前回までの3部作同様のお約束。アメリカのどこにでもあるようなショッピング・センターを徘徊するゾンビの群れは、ズタボロではあるが典型的アメリカ中・下層階級のファッションを身にまとっている。ロメロの描く「ゾンビ」は、飽食の大量消費、判断中止状態に陥って痴呆と化したアメリカ人に、ある意味「お前達は生きてないよ」と戯画的につきつけた批判だったのでもある。そして今回の映画では、人間側に貧富、権力の差を導入することにより、人間社会に対する皮肉な比喩は更に陰影を増して成立している。日常に潜む恐怖という面では、深読みするならば、「ボウリング・フォー・コロンバイン」でマイケル・ムーアが扱った種類の恐怖さえ思い起こさせる部分あり。「ゾンビ」が銃を撃つことを覚える場面では、合衆国修正憲法、「武装の自由」を諧謔的に思い出したもの。 まあ、しかし、やはりこの手の映画は、映画館から出た時が一番ホッとしてよい。周りどこにもゾンビはいないという喜びと安全。当たり前といえば当たり前だが。ホラーというのは、映画館から出て現実に戻った人間を「幸せにする装置」として機能しているのだ。 |