今日は午後から、TVのゴルフ中継で久々にタイガー・ウッズなどを見た後、ちょっと外出。駅近くの映画館で「トゥルーマン・ショー」を見る。ここはかかってる映画によらず、日曜の夜はいつもガラガラで、見るほうには結構な話なんだけど、これで商売が成り立ってるのか、いつも不思議になる。まあ、せいぜい潰れないように、日曜日に込まない程度に頑張ってもらいたいもんだ。
自分の住んでいる周りの現実社会が、実はニセモノだったってのは、SFにはよくあるアイデアで、フィリップ・K・ディックの作品にも、主人公が自分の住む世界の現実性に疑いを抱いて、アイデンティティーを喪失して行くなんて設定が多い。藤子不二夫の短編漫画にも、ごく平均的な家庭を隠れてモニターして、マーケティングに使うなんて話があったなあ。ジーターにも似たような小説があった気がする。
そういう面では、あんまり目新しいプロットではないのかもしれないが、知らぬうちに産まれてから現在までの生活のすべてをモニタされている男がいて、住んでる町も周りの人間もすべて世界的な人気TV番組中継のための俳優だった、などという荒唐無稽さが、なかなか面白い。
映画の中で、虚構を現実にスリかえたTV番組が演じられているというメタドラマ性もそうだが、興味深いのは、この映画自体が、アメリカの肥大化した現実のTVメディアのほろ苦い戯画となっている点だ。
素人が毎日出演して、自分の赤裸々な私生活を飽きもせずに垂れ流してゆくトークショー。20年も同じキャストで、延々と続いているソープ・オペラ(昼間に放送されているホームドラマ)。番組とタイアップしたCM。強大な権力を持って番組に君臨する大物プロデューサー。そして、毎日毎日、ソファやカウチに座って、TVガイド片手に、とても覚えきれないほどのケーブルTVのチャンネルの海ををさ迷いながら、悲劇や喜劇や、未来や過去のドラマを際限無く要求し、消費し続ける民衆。
そういう面では、この映画は、荒唐無稽な架空の話ではなく、現実のちょっとした延長線上にあるに過ぎない。そして、それが、可笑しくもあり、怖くもあるところなのだけど。
ジム・キャリーは、あの過剰とも言える大げさな演技に評価が常に分かれるところだが、この映画でも、ちょっとは押さえてるものの、やっぱりああいう芸風だ。
例えば、この映画の最初に出てくる。「In case I don't see you, Good afternoon, Good evening, Good night(もしも、また会わない時の為にまとめて言っとくよ)」(←だったっけか)と言って、ニカっと笑う演技なんかは、どの映画でも見たような気のする、いかにもジム・キャリーの典型なのだが、この映画では、逆にこのセリフが、虚構の世界に訣別するトゥルーマンの最後の言葉として使われていて、奇妙な効果を上げている。このキャスティングには感心した。